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うんざりしている女たち

私は普段から割と色々なことにうんざりしているのだけど、ここ数年の世の中はそれまでのうんざり全てと戦わせても互角になるんではないかというほどにうんざりのレベルが上がっている。そのせいもあってか、この間なんか壮大なスケールのSF悪夢を見てしまった。インディ・ジョーンズとスター・ウォーズが合体したスケールのスラッシャー映画的な世界観で、起きた時にはもう本っ当に疲れていた。

ドラマや映画でも、日々の生活にうんざりしている登場人物は多く存在する。みんな大体初っ端は大なり小なり何かにうんざりしていて、そこから抜け出すために、または不本意に巻き込まれながら、物語を生み出していく。

ということで今回は、私一推しの「うんざりしている女たち」を紹介させていただきたい。うんざりしている様子を隠さない彼女や、自分がうんざりしきっているのに気づかずに間違った方向に突っ走っていってしまう彼女。それぞれ思い思いにうんざりする物事に向き合っていたりいなかったりする彼女らを観て、一瞬でもあなたのうんざりする気持ちがどこかに飛んでいってくれたら嬉しい。

目次

ナディア・ヴルヴコフ:「ロシアン・ドール」 (Netflix)

まず最初に紹介したいのは、私が一目見て虜になってしまった、Netflixオリジナルドラマ「ロシアン・ドール」の主人公、ナディア・ヴルヴコフだ。彼女なしで、私のうんざりしている女たちへの恋心は語れない。

ナディア役であり今作の監督のナターシャ・リヨンは、同じくNetflixオリジナルドラマ「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック(以下:OITNB)」のニコール役で知っている人も多いだろう。「ロシアン・ドール」は「OITNB」のスタッフやキャストも参加して作られており、制作・脚本はアメリカの大人気コメディアンでNetflix映画「モキシー」の監督も務めたエイミー・ポーラーである。すでに期待値がグングン上がってしまう製作陣ではないだろうか。(話が逸れるけど、「モキシー」を手がけた脚本家のディラン・マイヤーとクリステン・スチュワート。婚約おめでとー!)

作品は、ナディアの36歳の誕生日パーティを舞台に始まる。ニューヨークのアパートに沢山の人が集まり飲んで食って踊って楽しい時間を過ごす中、パーティの主役はトイレで浮かない顔を浮かべている。

彼女は日々のうんざりする物事を、酒やセックスやドラッグで紛らわしている。だがあることをきっかけに、死ぬ度に36歳の誕生日に戻るというタイムループにはまってしまい、そんなことでは紛らわせない状況へと陥ってしまう。生き延びようにも何かにつけて死んでしまい、気づけばまたパーティーに戻っている。パーティーなら良いじゃんって気を紛らわそうとすれば、同じ境遇の男・アランに、自分の行動を改めろとか言われる始末。彼女のうんざりは募るばかりだ。

彼女のようなキャラクターは、今まで男性によって演じられる事が多かったように思う。自分の過去のトラウマを引きずり、私生活もだらしなく、人に簡単に心を開けない。弱々しいけど、共感も出来てしまう、愛される男たち。私も共感してきた観客の1人だが、そんな彼らの前に頻繁に登場する、母性とやら全開で悩める男を受け入れる女性を観ると、自分は受け入れる側なのだとリマインドされ、目の前で線引きされているように感じていた。

だからこそ、はじめてこのドラマを見た時は、気ままでだらしないナディアに一瞬で心を奪われてしまった。ナディアを「女性らしく」描こうとかいういらない気遣いをせず、自分の弱さに向き合い、仲間とともにピンチを乗り越える1人の人間の物語として展開していく今作。ナディアが日常でふとしたときに向けられるセクシズムに怒り、うんざりし、誰かれ構わず噛み付いていく姿も見ていて気持ちがいい。

「ロシアン・ドール」はシーズン2を現在制作中で、噂ではシーズン3まで制作予定とのこと。劇中に登場する曲も、ジャンルにとらわれず素敵なラインナップとなっているので要注目だ。

レベッカ・バンチ:「クレイジー・エックス・ガールフレンド 」(Netflix)

私が海外のドラマが好きな理由の一つは、シリーズが多くある分、登場人物達にコミットできるという魅力にある。ストーリーを特別急いで展開する必要も無いため、人物たちの葛藤や成長をより時間をかけて見られるのが好きなのだ。それを踏まえて次に紹介したいうんざりしている女が、コメディ・ミュージカル・ドラマ「クレイジー・エックス・ガールフレンド」の主人公レベッカ・バンチである。

レベッカはニューヨークで弁護士として着実にキャリアを積み上げていて、物語も彼女に昇進の話が持ち上がるところから始まる。理想的なシチュエーションなのに、何かが違うと心が叫ぶ。そんな中でレベッカはずっと忘れられなかった元カレのジョッシュに再会する。彼が後数日で地元に戻ってしまうことと、偶然目に入るバターの広告のメッセージも相まって (私もそういうのに影響されちゃうから分かる!)、彼女はニューヨークでの昇進を蹴飛ばし、ジョッシュの地元でありごく平凡な町、ウェスト・コヴィナに引っ越してしまう。そこで出会う新たな男性、元カレのフィアンセ、そんな恋仲に首を突っ込む同僚たち···。

ここまで聞くと、なんだかよくみるラブコメに思えてくる。あー、なんか色々乗り越えて、誰が自分の運命の相手か決める感じね、はいはい···と頭の中の懐疑的な私はすでに眉をひそめ腕を組んで構えている。

そんな予想を裏切ってくれるのが、このドラマの良いところだ。

レベッカは運命の相手に出会うことに執着しているから、物語もその路線で語られる。だが話を進めるごとに、物語はもっと彼女自身の話へとシフトしていく。でも、彼女は自分自身にだけは何がなんでも向き合いたくない。周囲の注意が自分に向いてきたら、むりやりにでも恋物語に戻そうとする。一進一退。観ている側も、この人とくっつくのか?という点よりも、今回こそレベッカは自分に向き合うのか?という見方に変わってくる。

つまるところレベッカは自分にうんざりしている。だから自分も傷だらけになり、周囲も割と傷だらけにし、新たな混乱を引き起こして、そんな自分に向き合うことから逃れようとする。コメディだから誇張はあれど、そこが観ている人が共感しやすい部分なのだと思う。

彼女にうんざりしつつもなんだかんだでサポートする周りの脇役たちも、男社会で生きることに男性として息苦しさを感じていたり、年齢的に新しい事に挑戦していけるのか悩んだり、ミュージカルやコメディ特有のステレオタイプな描かれ方や、ラブコメ特有の主人公の恋の成就の為だけの存在に収まらず、それぞれの悩みに葛藤しつつ自分らしさへの答えを見つけていく。

そんなレベッカと仲間たちが、たまにやりすぎかな?と思うくらい歌いながら成長し、観終わった頃には自然と口ずさんでしまうユーモア溢れる曲もたくさん詰まったこのドラマ。Netflixで配信中なので、是非チェックしてみてほしい。

今回はこの辺にして、私はまたドラマ映画にまみれてくるとしましょう。次回も読んでいただけたら嬉しいです。ではでは。

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このエッセイを書いた人

映像クリエイター/映画『I Am Here -私たちはともに生きている-』撮影・編集

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