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私の生きづらさの話

「なんで彼氏つくらないの?」「じゃあ好きな人はいないの?」「ひとりだと寂しくないの?」私が20数年生きてきて特に数年よく言われる言葉たち。

きっとこれって私だけではないと思う。このような言葉たちに苦しめられて、またそのような言葉たちに縛られて焦りながら、怒りを隠しながら暮らしている人々はそう少なくないのではないだろうか。

私の生きづらさはたぶんそうやって日常に常に潜んでいて、周りの人間の多くがそれに気づかずにいるんだと思う。私は自分のセクシュアリティが一体何なのか、長い間考え続けてきた。自分のことをもしかしたらアセクシャルなのかもしれないと思ったときもあるし、考えていく内に自分はパンセクシュアルなのではないか?と思った時もある。

長年そのことについて考え続けてきて、現在では自分はクワセクシュアルであると自認している。自分のセクシュアリティがぼんやりとしていて、そのことについてずっと考え続けていた私にとって、周りから何の気なしに向けられるそのような「質問」は、正直言って苦痛以外の何者でもないのである。

この世界はシスジェンダー、ヘテロセクシャルが中心となって回っていて、私に向けられる「質問」もそれらの考えが中心となっているのだろう。自分のいるシスジェンダー・ヘテロセクシャル中心世界が当然と思っている人にとって、自分のいる世界にまさか私のような人間がいるとは思えないのかもしれない。自分がそう感じているのだから、貴方もそう感じるに違いない、そう言った思考で私に無意識の刃を向けてくるように感じるのだ。

私は自分のセクシュアリティについて、家族にも、友人にもまだ誰にも言ったことはない。休暇中に実家に帰省し、両親とテレビを見ていて恋愛ドラマのCMが流れると「うちの娘はいつになったら彼氏の顔を見せてくれるのだろうか」と口にする。

以前、セクシャルマイノリティをテーマとした作品を両親と鑑賞した際に何気なく、私が実はこの作品のような人だったらどうする?と尋ねてみたことがある。「でも〇〇は海外の俳優が好きだからそんなことはないはずだ」、それが両親の出した答えだった。

今思い出すと、私はこの瞬間に色々なことを諦めたように感じる。それ以降「質問」が飛んできてもふらふらと躱したり、聞いていないようなふりをしたりして、自分のセクシュアリティに関する話題は出さないようにしている。

以前地元の友人と夜中に話をしている際に友人から「男と女の友情関係は絶対にありえない」と言われ、大きなショックを受けた経験もある。「男」は性自認が男性であるヘテロセクシャルの人のことを指し、「女」は性自認が女性のヘテロを指すのだろう。

彼女の言い分としては互いが性的指向の対象である人々の間に友情関係は成立するはずがないというものだった。自分のセクシュアルに関して悩んでいた私にとって、彼女の想定する世界の中には私のような人間は存在していないという事実を突きつけられたような気分であった。

このようなことが度々あって以降、自分のセクシュアルの関する話は極力避けて生きてきている。例に出した人達との関係は悪い訳ではなく、長年大事に思っている人達ではあるが、自分のセクシュアルについては今後も話すことはないだろう。

SNSではいわゆるCOをするセクシャルマイノリティの方を見かけ、ご本人がCOできたと喜んでらっしゃって私まで嬉しくなるようなこともあるが、そもそもCOをしなければならない社会って何なのだろうと思うこともある。

近年では人々のセクシャルマイノリティに対する理解を深めるために様々な活動がされているが、理解度に関しては年代や地域差が大きくあることは否めないだろう。

今後これら活動がより広まっていき、シスジェンダー・ヘテロセクシャル中心の世界に私たちが存在しているという事実に、少しでも多くの人が気づいてくれるように、私の生きづらさを少しでも感じ取ってくれる人がいてくれますようにと願いながら、私は今ひとり筆を走らせている。

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このエッセイを書いた人

語彙力消失型文系大学生

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