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あの日ぼくのデッドネームのスペルを読み上げたAppleアドバイザーさんへ

これから先、一生、ぼくはAppleユーザーで居続けよう。iPhon12 miniを握りしめながら、ぼくはあの日、静かにそう誓った。

一昨年、改名をした。一目で「女性」とわかる名前を捨て、ニュートラルな印象のものへと変えた。家庭裁判所への申立の準備や書類集め、その後の面談などでへとへとになったけれど、やってよかったと心から思う。たかが名前、されど名前だ。他者から呼ばれるぼくの固有名詞がジェンダー・アイデンティティと著しくズレているストレスは、長年ぼくの心を腐食していった。そこからの解放感たるや!

家裁から申立許可が降りたら役所へ赴き諸々の手続きを済ませ、戸籍謄本やら住民票やらを取得する。そのあとやらなくてはならないことは、銀行・携帯キャリア等々での名義変更だ。いまだ夫婦別姓を認めていないジェンダー・ギャップ指数ひくひくニッポン、苗字の変更だけは大抵どこの機関でもWEBサイトからできるようになっているが、「名前」の変更は直接店舗に出向くか書類を郵送する必要がある。めんどくさいな。今時ぼくみたいなセクシュアリティが理由で改名する人なんざごまんといるんだから、必要書類もWEBでアップロードできるようにして、ぜんぶ自宅で完結するようにしてくれよ。頼むからさ。

各々の名義変更を着々とこなしていく中、ある項目でふと手を止めてしまった。それはApple IDの変更だ。Apple IDはアドレスだから名義変更じゃないんだけど、ぼくはデッドネーム(改名前の名前)を入れたiCloudドメインのアドレス(@以降がme.comないしicloud.comになっているもの)をIDに設定していたのだ。どうすべきかしばし悩んだ。このままデッドネームのアドレスを使用し続けるか、それとも新しいアドレスで設定し直すか。

というのも他のドメインのアドレスをApple IDに変更することは可能なのだが、iCloudのアドレス自体は変更が効かないのだ。プライベートではiCloudアドレスを使っていたため、改名後もできればこのままApple IDに使用し続けたかった。

でも、よく目につく場所にデッドネームなんか置いておきたくない。他のサービスのアドレスをApple IDに設定し直すか、それともどうにかしてiCloudアドレス自体を変更できないか。考えた末、ダメもとでAppleに問い合わせをしてみることに決めた。

さっそくAppleサポートに電話をかけ、アドバイザーさんに事情を説明した。セクシュアリティを理由に改名したこと、これまでと同様にiCloudアドレスをApple IDとして使いたいこと、そのためiCloudアドレスをどうにかして変更できないか確認してほしいこと。そもそものシステムを知っていたため「むちゃなお願いなのは重々承知なんですけど……」と恐縮しながら話すぼくに、アドバイザーさんは「とんでもない!」ときっぱり言い切った。

そしてなんと、「お客さまがおっしゃる通り、本来はiCloudアドレスの変更はできないんです。でも事情が事情ですし、対応できないか掛け合わせてもらっていいですか」と申し出てくれたのだ。正直、かなり驚いた。先述した通りダメもとだったし、それに「こういう要望があった」という声のひとつになればいいなくらいの気持ちだったから、てっきりすぐに「申し訳ないが難しい」と言われて話は終わってしまうとばかり思っていたから。

しばらくして折り返しがあり、「やっぱり現段階では不可能みたいです」と謝られてしまった。済まなさそうにするアドバイザーさんに、いえいえあなたのせいではないので……とフォローした。ちょっと残念だけど、仕方がない。アドバイザーさんは面倒だろうからと本来なら自力でできるApple ID変更も「私の方で承ります」と言ってくれたので、ありがたく好意に甘えることにした。

本人確認のために現在のアドレスを読み上げると言われたので待っていると、ほんの一瞬、間が空いた。あれ、どうしたんだろ。小首を傾げていると、意を決したみたいにアドバイザーさんが言った。「本当にごめんなさい。このお名前を聞かされるのはとても辛いと存じますが、ご確認のためにどうしても必要なんです」

わずかに視界が揺れる。イヤホン越しに聴くその声はあまりにあたたかく、やわらかく、iPhoneの画面が滲んだ。「そんな、大丈夫ですよ。当時設定したのは自分だし、必要なことだとわかってますから」。自らの声が濡れているのを悟られまいと、努めて明るい声で返事をする。アドバイザーさんは「かしこまりました」と言い、デッドネームのスペルを、ひとつひとつ、ゆっくりと読み上げた。アルファベットのみ、ローマ字変換の発音はついぞ口にしなかった。

変更が無事に終わると、アドバイザーさんは再度申し訳ないと謝った。いえいえそんな、とすかさず応酬しようとしたが、食い気味でそのひとは言った。「“不可能” になってること自体、本来は見直すべきです。そもそも伊藤さんのような方に限らず、さまざまな事情で改名される方はたくさんいらっしゃるはずですから。上に伝えて社内でも共有したいと思います」と。願いを込めるみたいに。あるいは、信念を燃やそうとしているみたいに。

何度も何度も礼を言い、通話を切った。ぐずぐずの鼻を、ティッシュで噛む。この世界は、ぼくたちにやさしくない。クィア・ミックスルーツ・在日コリアン・虐待サバイバー・障害者・そのほかすこしでも「みんな」と違うマイノリティ属性を持つ人間を、締め出そうと躍起になる。それこそぼくたちの存在を透明化した、不動産のスタッフさんたちみたいに。

でもそれと等しく。あのひとのように、寄り添ってくれるひともいる。共に生きようと、生きやすい社会を目指そうと、身近なところから変えようと動いてくれるひともいるのだ。あるいはあのひともクィアだったのかもしれない。いずれにせよ、嬉しかった。泣いてしまう程度には。声と口ぶりから、どうやらアドバイザーさんはまだ若いひとのようだった。おそらく役職に就いてはいない、まだ強い権限を持っていないひと。

あの日、ぼくのデッドネームのスペルを読み上げたAppleアドバイザーさんへ。ありがとうございます。あなたがけっしてデッドネームをぼくに聞かせまいと、アルファベットだけで確認してくれたそのやさしさで、ぼくは今日も生かされています。あなたがぼくの快適な生活を願ってくれたことを、けっして忘れません。本当に、本当に、感謝しています。だからひとつだけ、もうひとつだけお願い。

Apple製品の価格も下げるように、ついでに掛け合ってくんない? 

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このエッセイを書いた人

伊藤 チタのアバター 伊藤 チタ ライター

ヤケド注意のライター。 ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。

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