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哀れみも「応援」も要らない

私が自分の事について発信している理由について少し話したいと思う。

『FROM THE HELL MAGAZINE vol.1』では、「Queer is Everywhere」をテーマに、ノンバイナリーで特に相手の性別を問わずパートナー関係になる事のあるクィアとして自分が普段感じていることや考えていることを書いたエッセイをいくつか掲載している。

でも、自分がクィア代表として何か声を発しているとは思って欲しくないし思わないし、そうでありたくない。

目次

私が発信する理由

私がLGBTQ+当事者として差別を受けた経験やそこで考えたことは、実際に受けた人間にしか言語化できないものだと思っている。

だからこそ、そこを可視化して社会に発信する文章をよく書いてる。

読んだ人が考えるきっかけになればと思って。同じ社会に生きている人間としてこの社会の問題について一緒に悩んだり改善しようとあれこれ考えて欲しいから。
でも、そういった自分の思いとは別に、書けば書くほど、自分の置かれている状況について言えば言うほど、なんだか自分と違う経験をした人とは距離を感じてしまう部分もあるような気がしている。

差別される人だけの問題じゃないから

「大変だったね」
「応援してるよ」

という声。
それを発する人達に悪意は無いだろうし、むしろ善意しかないのだろう。でも、私としては同情も腫れ物扱いも、「応援」も、されたくない。個人としてケアされたい訳じゃなくて、そのエネルギーを差別構造を弱める方向に向けてくれないかなと思う。

差別や搾取は、社会の問題であって差別される人の問題じゃないから。

それに、「応援」ってなんだろう?
差別について喋ってる時に「頑張ってね、応援してる」とか「すごい」とか言われると、「え、あなたはなにもしないんですか?ただ私のファンとしてそこから動かず見てるだけなんですか?今の発言はその意思表示なんですか?」って意地悪を言いたくなりながら笑顔で飲み込んだりしている。
けど、実際にそうだと思う。

現在進行形で声を上げて発信している人を支持してあたかも自分も発信しているような気になるのは楽だけど、実際にはそんなの、差別解消の足しにはならない。

それに「応援」という言葉であたかも自分とは関係のない事であるかのように切り離すことで、「応援」される人は孤立する。一人で差別や暴力と向き合わせる事になる。

搾取や差別や暴力の構造は手強くて、一人で闘っただけじゃ太刀打ちできないと皆知っているのに。(だから差別の存在を知りながらも迎合して現状維持に加担する人もいるんでしょ?)

一緒に闘って欲しい

差別と闘う人は多ければ多いほど良い。

というか、差別自体が人を死に追いやるものなので、それと闘わない、見て見ぬ振りをする、という態度はそのまま間接的にでも他の誰かを「殺す」事に繋がっている。
怖いよね?言ってて私も怖いなって思いました。でも事実なので、これを怖いなって思った皆さんには一緒に差別と闘って欲しい。

何なら実際に踏まれる立場にない(その属性において特権側にある)人たちは、差別されてる人たちよりも元気が有り余っててポテンシャルが高いと思う。少なくとも「被差別者側で、毎日無自覚な特権有る側から踏まれまくって削られて、でも黙って潰されたくないから必死に声を上げている人」よりは、心身共に余裕があるであろうことは少し考えればわかる。

それなら、一ミリも苦しくない精神にも時間にも余裕があるであろう人間が差別に反対せずに安全な所から高みの見物をする理由はないよね?と思う。

彼らには彼らなりの事情や忙しさもあるんだろうけれど、だからといって普段アクティビストとして発信している人もそれぞれの生活の合間に時間と脳みそを使って何か動いているのであって。かつ差別されてる人だととそれにデバフがかかるのであって。それならあなたも何かできるでしょ?と思う。逆にもしそのまま何もしないのであれば怒りすら感じる。

現状維持ってこの最悪な現状の肯定だから……。
差別は肯定されるべきものではないので……………………。

私は一緒に闘って欲しい。闘ってくれる人を探している。積極的にアライになって欲しい。(アライって言葉、差別の当事者は差別がある環境の構成員全てだという私の考えからするとあまりしっくりきていなくてあんまり好きじゃないけれど、踏まれてない立場で差別に抗ってる人を表現する言葉としてはアライ以上に適切でわかりやすい言葉を知らない)。
アグレッシブに連帯して、一緒に平和主義過激派になって欲しい。

……って言っても、抽象的な言葉が多すぎたから具体的に言ってみる。
私みたいな受けた差別について言語化している人の言葉に耳を傾けて傾聴して、「そうだよね」って頷いたりいいねボタン押したりするだけじゃ少し物足りない。知ろうとするという面ではそれも差別反対の第一歩だけど。

もっと踏み込んで、差別的な態度を取る人を相手に「それって良くないですよ」って声に出して抗議したり、言葉にしなくても否定的な表情を作ったりして、受け入れていない事を伝える。
例えば政府が差別的な法案を作ろうとしている時には、反対の署名をしたり、抗議のツイートをしたり、知人とその話をしたり、デモに参加したり、政府や国会議員にメールやファックスを送って反対している旨の声を届ける。
選挙では、人間をちゃんと人間扱いするかそれか一番人間扱いできそうな候補者に投票する。

……などなど、そういう事を望んでいる。

受けている暴力に対して自分の尊厳のために闘わざるを得ないような人達を孤立させないで、社会の構成員として、一緒に闘う。
そうすることで、ただ
「クィアって可哀想だね」
「大変だね」
「頑張ってね」
と憐れまれたり応援されたりする時の何倍も元気づけられて、差別が辛い社会で明日を生きるための力になってくる。生きる希望になるし、生きてていいって思える。

私自身も自分が特権側にあたる差別問題には全力でその姿勢でいきたいと思ってるし、(勿論自分含め)誰にとってもセーファーで安心で安全で(2回言った)生きてていいって思えるような環境を身の回りに作っていきたいな~~~~~~~。という気持ちで発信してます。

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このエッセイを書いた人

they/them ノンバイナリー。はっぴーくぃあぎゃる。

エッセイはライター自身の見解や分析であり、サイト参加者全体を代表していません。

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