幸福の調子(Life Time, Happy Time)
セルフケアは、ミニマルにすることが大事だと思う。最小限にという意味ではなく(それはミニマムが近いと個人的にと思う)、コンセプトに従った一定のものを反復すること。ミニマル・アートとかミニマル・ミュージックのそれに近い。
例えば、夏は水を飲みすぎると胃腸を壊すし、あまりに飲まないと熱中症になる。潤しすぎても干からびさせてもいけない。だから植物みたいに、適量をこまめにすること。それがいいのだろうと思う。あと、冷たすぎるものとか温かすぎるものも良くないと薬剤師が言ってた。あったか~いとかつめた~いはあまり良くない。
どこがイントロで中間でアウトロか分からないアンビエントのように、持続的で、内省的で、環境とコミットした形のセルフケアが肝要なのだろうと思う。
イーゴ(EGO)
セルフ〇〇という英語や和製英語は2通りの読まれ方をする。セルフで/セルフを、というように。思うに、セルフをケアするものであるセルフケアは、必ずしもセルフでケアしなくてもいいし、むしろそのほうが良いときもあると思う。ピア・セルフ〇〇。女性社員が7割の「ラブグッズ」開発会社がパートナーと共同でするセルフ・プレジャーグッズを創ってた。そのフレームワークを転用して男性用も。セルフをピアですること。
笑っている時だけ(…Only When I Laugh)
自分はわりと弱々しい雰囲気だし、それを隠すためにわざとエキセントリックに振る舞ってきた(のをまだ後悔してる弱々しい気質)人だと思う。可愛いか何考えてるかわかんないのどっちかの言葉が向けられがちだった。あるいは、それらを統合したニュアンスの「面白い」。高校生のときはYMOに心酔してたから、80年代(70年代?)的な意味でビョーキなキャラクターを自己表象してた(ある一面から解釈すれば。
弱さはセルフで、強さはピアで扱うものだと思ってた。要するに、自分に対するケア的な行為はセルフで、他者に対する非/反ケア的でマッチョな行為はピアで行うものだと思ってた。
でも、セルフにもじもじ向き合うのを、変にキャラ化(面白や奇妙さで虚飾)せずに、かと言って変に重くもせずに、ピアでできたらなと思った。
ロマン神経症(NEUROMANTIC)
ウィークネスフォビアという強迫観念(オブセッション)がある。要するに弱さを忌避しちゃうとらわれ。
フォビアという言葉、すなわち恐怖の気持ちは、往々にして経時的にヘイトに移り変わる。あるいは同一化する。あるいは、そもそも同一。トランス・フォビアやホモ・フォビアがそうであるように。
それこそが、「フォビアがオブセッションである」ということだと思う。ACT(Acceptance and Commitment Therapy)や森田療法で言われているように(この2つをこうしてつなげるのはナイーブだしざっくりしてるだろうけど)、不安に基づいたとらわれには「受容」「あるがまま」の気持ちで、いま大事なことに関わってくことが必要。弱さを避けたい気持ちも含めてあるがままに受容しつつ、弱さをあるがままに受容する。そういう、ピア・セルフサポートの場があればいいなと思う。
ボク、大丈夫!!(WHAT, ME WORRY?)
先日、人と会うときにご飯が食べるのが緊張する人たちのピアグループのオンライン回に参加した。恐らく、人と人がお互いに、そして多くの人が自分に、自然体だったように思う。要するに、自分の弱さを(それへの忌避も含めて)受容してあるがままにそこにただ”いた”(doingではなくbeingの)瞬間があったように思う。かと言って、変に重くねっとりもしてないし、変に「ビョーキ」的スタンスがある場でもなかった。
そうでなくとも、少なくともこのような場を標榜してる場ではあったと、個人的に感じた。こういうときがピア・セルフケアなのだと思った。
体操(TAISO)
人文科学、とりわけフェミニズムの分野でケアに関して耳目が集まっている。とくに、「ケアの倫理」に関して。公私ともに、ジェンダー規範に強く依拠して「女性」がケアのポジションに置かれてしまっている状況が多々あるのだ。
さまざまな人口統計的プロフィールにかかわらず、ピア・セルフケアを行って体を動かしたり心を動かしたりすること。それは1つの運動(activism)であると思う。少なくとも、運動へと連動していく、体操としてのプロテストの方略に、なりうると思う。







