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スムース

 

 本屋さんへ移動中の車中。電波塔見て「わあ東京タワーだ!」ってそりゃあもうはしゃいでた。なんでここに何本も東京タワーがあるのかが不思議になった。親に訊いたら電波塔だよと笑う。もうわけわからんかった。この前スカイツリー行ったとき、「わあスカイツリーだ!」と思った(15年経って頭痛持ちになってしまったので、はしゃげなかったけど)。15年前じゃ、「わあスカイツリーだ!」ってなれなかったんだと思う。 

 15年前、国から国へと目を滑らして、「ブラジルゆで汁」って言った。ジョイマンが言ってた後に、教室で自分が。大爆笑だった。地理の授業の地図帳クイズの「この国はなに?」という質問だった。クラスで流行って前の休み時間に何人かがそのギャグをやってて、つい。ウケた直後、「ブラジルの人に謝れ!」と怒鳴られた。私は「予め」、ブラジルとのミックルーツの人たちの顔をウケながら確認してた。笑ってるか確認してた。それで自分のジョークが大丈夫かを確証してた。誰に謝る必要がなくても、今なら絶対言わないなと思う。私は。 

 色々なことに意識的になったり教わったり自分なりに気づいてみたりすると、楽しさを感じる対象の文化が変わってくるなって思う。普通に無理になってく。そうやって次々に転々とするのが成長だと思ってるフシさえある。物事と接するときに無限にメタ視点を積み上げようとしてしまうその縦移動で、色んな物が見えたり(たぶん同時に見えなくなったり)する。まあくん変わったねとよく言われる。 

 例えばお笑いという1個の文化。ちょっとこれはさすがに暴力的だ、と思って別のお笑いを探す。ボケツッコミが不明瞭なコント、やたらセンセーショナルに言挙げされた「人を傷つけない笑い」、シュールなピンネタ。そうやって縦に移動してってどれにも辟易としてしまって、別の文化へと横移動する。縦横の移動を繰り返して、たまに戻ってくる。で、また移動して、繰り返す。呆れ終わりと再接続と質と量が人を批評的(クリティカル)にすると思う。そして、そのような態度が毅然としたプロテストのしぐさを育むと思う。 

 よく「ポリコレかよ」とか「はいはいコンプラ」とか言うシニカルな目線で、何らかの文化を「今までこうだったから」という理由だけでこれからもこうしていこうとする。同語反復だけで文化を保守することに強迫的になる。だけど、今コミットしてる文化を批評的に見ながら縦移動を繰り返して辟易としたら横移動する、というのを繰り返せばいいと思う。文化内移動と文化間移動を反復して、特有のナラティブ(物語/語り)を得れば良いのにと思う。

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このエッセイを書いた人

理不尽さについて聴く、書く、考える、話すことができたらと思う|フェミニズム、セクマイ、ジェンダー、ハラスメントなどなど

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