“生まれたときに割り振られた戸籍が女性で、パンセクシュアルであり、現在のパートナーが男性で、かつ改名と胸オペをした”というエッセイを以前とあるメディアに寄稿したら、思いがけずバズった。
Twitter上のバズって、ある程度を越えるとわけのわかんないトンチンカンなコメントを寄せられる確率がグッと高くなる。これがツイートの場合ならインプレッションである程度その予測も立てられるけど、記事の場合だとそうはいかない。引用RTではなく、記事のURLをクソみてえなコメントを添えてシェアされちまうと、もう発狂しそうになる。心血注いで書いた文章が汚されたような気がして。
このときもやっぱり例に漏れず、一定のシェアを越えるとちらほらとヘイターが群がり始めた。破綻した論理を喚く人間は相手をするだけ無駄だってことくらい、3年も書いてりゃわかる。インターネットでものを書く期間と比例して、神経も鈍麻していく。記事URLでエゴサをかけて粛々と事務的にブロックしていったのだが、あるひとつのシェアツイートを見て久し振りに膝から崩れ落ちた。
「改名をしたり胸オペをしたりしてるくせに、化粧をしたり男性と結婚したりしてて意味がよくわからない。女性にも男性にも見られたくないと言ってるけど、実はこの人がいちばん性別にこだわってるよね」
なにを言ってるんだ、あんたは。
そう突っ込みたいのをどうにか堪えて、静かにブロックをする。ノンバイナリーやXジェンダー、クエスチョニングなどなど、性別二元論に当てはまらないジェンダー・アイデンティティを持つぼくのような人間が声を上げ始めたのは、少なくともこの日本社会においては、本当にここ数年のこと。これまでずっと、ぼくたちはハリー・ポッターで言うところの透明マントを着せられていた。皮肉にもそれを生み出したJKローリングが強烈なトランスフォビアだった事実には、透明マントを着せられていたぼくたちをさらに絶望させることとなったけど。
出生時に割り振られた性別とは異なるセクシュアリティのあり方を持つ人間がいることが認知され始めた今もなお、それさえ性別二元論に回収されている。あたかもトランスジェンダーには女性か男性かしかいないみたいな語られ方に、ぼくはいつも窒息しそうになる。この瞬間も。
ノンバイナリーの認知度そのものは上がってきたがしかし、肌感では間違った解釈をされがちのような気がする。ノンバイナリーはなにも、「性別にこだわらないセクシュアリティ」を指すカテゴリではない。シンプルに、男性にも女性にも当てはまらないという、ただそれだけなのだ。
性別二元論神話をこの時代においてもなお信じている人々にとって、ぼくらのような性の在り方は理解し難いのだろう。それゆえに、自らの文脈でむりやりに解釈しようとするのだ。だからねじれが生じる。
ノンバイナリー=既存のセクシュアリティに“囚われない”自由な生き方をする人、ねえ。いいんじゃない。最近ジェンダーレスだっけ? なんかそういうの、流行ってるし。
そんな雑な理解で捨て置かれるのが、つまるところぼくらノンバイナリーなのだろう。
だからそういう人たちは、ぼくの性に「疑問を覚える」のだ。女性じゃないって言いながら「妻」として婚姻届に名前を書いて男性と結婚して、それで改名しておまけに胸まで取っちまうって、意味がわかんないんだけど。てかこの人、旦那さんとセックスするときどうしてんだろう。こんな感じに、下衆な勘繰りまで入れて茶化すのだ。自らの理解が浅いことを疑うのではなく、ぼくの性のあり方を「ありえない」と否定する。自分自身が「無知」であること──偏見や差別意識を抱いていることを、認めたくないから。己の理解の範疇外のことは、範疇外の人間に責任を押し付ける。
いつまでもそうやって、あなたたちは生きていればいい。
最近ようやっと、そう思えるようになってきた。学ぼうとしない人、マイノリティへの歩み寄りを積極的に行おうとしない人。そういう人たちは結局、ぼくらを社会の一員としてみなす気などさらさらない。対等な一個人として尊重しようなどという考えなど、ハナから持ち得ぬ人種なのだ。
だったら、もういい。あなたたちがどう思おうと、世界は進む。社会は進歩する。改革は起きる。歩みを止めたあなたは、その中で確実に置き去りにされる。ノンバイナリーを捨て置いたあなたたちこそが、近い未来で捨て置かれる側となるのだ。
ぼくたちノンバイナリーは、「性別にこだわらない」人間ではない。そういうノンバイナリーだってもちろんいるにはいるが、それがノンバイナリー全員に当てはまるとは限らないし、そもそもノンバイナリーのカテゴリの解釈とはズレている。
そうだよあなたたちが言う通り、ぼくはだれよりも「性別にこだわっている」。女性として扱われるのもまっぴらごめんだし、男性として扱われることにも嫌悪を示す。性別二元論で説明できない性を実際に生きているし、ミスジェンダリングされると比喩でなく死にたくなるほどの苦痛を覚える。
理解できなくていい。わからなくていい。知らなくていい。ただもう、近づかないでくれ。半端な知識でぼくたちをわかった気になって、そのズレた解釈から逸脱した途端に「矛盾している」なんてわけのわかんないヘイトで殴らないでくれ。
自分の見えている世界だけが、すべてだと思うなよ。ぼくたちは確実に、この社会で生きている。男性でも女性でもないセクシュアリティを誇ったり、悩まされたりしながら、今日もこうしてMacBookのキーボードに怨念をぶつけているのだ。