1.
女性が男性に使うとモテるとされる「さしすせそ」。「さすが」「知らなかった」「すごい」「センスよい」「そうなんだ」という言葉を使おうというモテテク。女性はケアとしばしば結び付けられる。すなわち、ケア要員であることが女性へのジェンダー規範として存在してる。そして、規範なるものは、公私ともに(ハード面ソフト面ともに)個々人や集団を方向づける。ケア職や対人援助職に女性が多いという職業上のものに加えて、日常的な”ふるまい”として人を方向づける。抑圧する。このモテテクが、女児向けの書籍でこれが女児向けに推奨された。ジェンダー規範(ひいてはあらゆる規範)は、教育され内面化され再生産される。
女性に付されるケア規範に漬け込む「男性」が大量にいる(し、私も無意識につねにすでにそうしている)。その好例が「ストリートキャバクラ」だと思う。すなわち、パブリックスペースで女性にさしすせそさせるふるまい。
例えば、業務中の「女性」の図書館職員に対して延々と(ほぼ必ず大声で)俺の話をし続ける。発話中にも発話後にも間はなく、間隙を突いて「そうなんですね」か「すごいですね」を言う係になる職員。来館者が貸出口に複数人並ぶ。苦笑を湛えて目配せして、他の職員が貸出に対応する。続く俺の話。このようなことがあらゆる公共空間で起こる。仕事(公的な役割)の隙を縫って起こる。無意識的に、職責にかこつけてジェンダー規範を強いる。そんなつもりはなく、強いる。そういう害悪に対する「最強のさしすせそ」として、「さあ?」「知らね」「全然。すごーい私!」「センスやばい(笑)」「そうか?」が紹介されていた(アルテイシア,2021)。
プライベートにおいても同様のことが頻回に起こる。端的には、ナンパ。
2.
5年前。夜遅く大学から帰る。名古屋駅が施錠されてる。通り抜けられない。多くの人と私が、駅の向こうに行きあぐねる。駅西にはどう行けばいいですか?身近に「男性」が見当たらず、「女性」に訊いた。その人は去りかけた。私は続けざまに発してしまった。「あの…駅西にはどうすれば行けますか?」。その人は踵を返し、本当に丁寧に教えてくれた。スマートフォンを参照しながら。礼を言い、謙遜され、別れた。
そのときハッとした。自分の存在自体がつねにすでに含んでる加害者性を、忘れてた。ストリートナンパ。キャットコーリング。ストーキング。(多くの)「女性」にとって、あるいは少なくともその人にとって、深夜1人で歩いてるときに知らない男性から声を掛けられることがどのようなことだったのだろう。街で女性を言葉で切りつけ、女性は刃物で切られたような鋭い傷を受けるような男たちは多い。
「俺はそんなことし(て)ない」「そんな意図はない」「そんなことすると思うなんて心外だ」。そのようなロジックで「自分の加害者性の被害者になって辛いの⋯」という語りを私はしかねない。自分がもつ加害者性を、逆ギレに転化するのではなく、自己批判と公的な批難に昇華しないといけない。
教わった道を行った。私と同様に抜け道に窮していた女性の大学生2人がいる。方向が同じ。少しの距離。ふいに訊かれた。近くにカラオケありませんか?
答えた私と2人が歩く。さっきZeppで観たライブをとてもうれしそうに、にこにこ語る2人。Base Ball Bear。ライブのMCの面白さやボーカルの可愛さ、演奏の上手さ、最近のコラボの意外さなどを語ってきてくれる。カラオケが見えた。謙遜とお礼の交換。
この人たちにとって、「ヤな言動されなかった経験」になりたかった。男性フェミニストをヒロイックに自称しないようにしながら、自分の加害者性の被害者ぶらないようにしながら。得意気とわかったフリはしたくない。できるだけ。
3.
ハラスメントや差別に声を上げることは、私怨によるものではない。「構造的威張り(威張ろうとすれば威張れるからって威張るという振る舞い)」とそれに伴う「構造的逃げ(逃げようとすれば逃げることができるからって逃げるという振る舞い)」に対する非難だ。これらの威張りと逃げに相対すると、「構造的威張れなさ」と「構造的逃げられなさ」に陥る。要するに、「威張ろうとしたところで威張れないし威張れるとしても威張りたくなんかないという状況」、「逃げようとしたところで逃げられないし逃げられるとしても逃げたくなんかないという状況」だ。
そんな状況下にある者が「上」にする訴えかけは社会的な批判だ。なのにハラッサーは、そのような「公怨」を私怨だと認識して、逆ねじを食わせる。威張りと逃げに少し論駁されただけで、「攻撃された!」「威張られた!」「怖い!」「あなたのあの言動だって!」と言い放つ。わんぱくに。
構造的なアンバランスさをわかろう。それぞれが同じような言動をしてても、そのアンバランスさ故にその言動の意味性が異なることをわかろう。そしてそもそも、量的に違う。
特権的で安全な立場にいる人が決まって見せてくるおぞましい素っ頓狂な泣き顔、困り顔、微笑み。すりかえられた話が続けられる。
威張れるからこそわきまえよう。その威張りの責任から逃げられるからこそ逃げないように。そして、威張れないからこそわきまえなくていいはず。あるいは、威張れないからこそ逃げていいはず。威張れるぶんわきまえる。威張れないぶんわきまえない。威張れな威張れないぶん逃げていい。根に持つ権利と忘れる自由。
4.
コミュニケーション不全なんかじゃなくて一方に過失がある出来事なのに、どんな出来事に対しても、「相性だね」「どっちもどっちだよ」「それぞれがそれぞれの正しさや正義をもっててお互いに自分が正しいと思ってるのさ」みたいに相対化して矮小化・単純化する態度って、なんて知的じゃないんだろう。なのに、そんな態度のほうが大人な態度だとか社会的な態度だと物分かり顔で捉える。むしろ相当に幼稚で反・非社会的な態度なのに。あまつさえその価値観をしたり顔で説き、なにしろ過失した張本人がその相手にそれを行う。なんて反・非社会的なんだろう。
素朴で問題含みの価値観を悦に入りながらドヤ顔で説教する素朴さ。そして、相手のほうを素朴だと思ってものを説いてくる素朴さ。その素朴さに気づかない素朴さ。
死ぬまで重ねられる、威張られたり逃げられたりする物語。今まで重ねてきてしまい、これからもつねにすでに重ねうる、威張ったり逃げたりしてしまう私の言動。それらを少しでも減らすために生き続けたい。素朴さを加速度的に喪失したい。