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「当事者」と「非当事者」に分けられたくない。反差別の主体は、差別に反対する人全員のはずだから

差別の話をする時、「当事者です」って言うとよりよく話を聞いてもらえて、逆に当事者って言わない人には「外野は黙ってろ」って雰囲気になるの、何なんだろう。

当事者の声を大切にする態度は、確かに社会での特権側に居る人と否応なくその構造に気付かされる属性を持つ人とではこれまで経験した苦労とかが違ってくるから、ある意味正しい。でも、これは社会全体の問題なのであって当事者の問題ではないので、当事者のみに語らせるのは反差別において逆効果な気がする。

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「当事者」というだけで丁重に扱われがち

LGBTQ+の存在を「特別」なものとして見ることや、反対にシスヘテロでモノガミーで恋愛したり性欲を抱いたりするのを「普通」として分断することに、どれだけの意味があるんだろう。

その属性に関する話をする時、経験をしているという意味で、差別を一身に受ける「当事者」の話が貴重である事は確かだ。
でも、「当事者」だからといって発言が全て正しいとは限らない

当事者の中にも色々な考え方の人がいる。
しかも、「当事者」だからといって、最初から物知りな訳では無い。もしその人が差別やその構造について詳しいのなら、それは本人が調べたり勉強したりして学んだ個人の努力の結果だ。

だから、例えば学生の調べ学習のための取材や、メディアなどで差別の問題について話したり考えたりしようとなった時に、殊更「当事者」の言葉や感覚をありがたがって、「当事者」の声ばかりを取り上げたものになってしまっているのを見ると不思議な気持ちになる。
れは差別を引き起こしている社会の問題で、それを正そうとすることは「当事者」でも「アライ」でも関係なくできる事だ。なのにその場にアライは出てこない。いたとしても、あまりフォーカスされない。

社会全体の問題なのに

私の身近には、日本にある差別の存在を知って、自分で理解を深めようと勉強して意識をアップデートして、「一緒に差別と闘う」姿勢を示している「非当事者」が存在している。

そもそもとして、日本社会にいるLGBTQ+は大体13人に一人の割合でいると言われていて、ただでさえ少ない。しかもその中でも、「LGBTQ+の権利をもっとよくしていこう」と活動的になる性格の人ばかりではないので、そんな「当事者」だけに絞ってしまうと本当に何もできないまま全てが終わりそう
だからこそ「当事者」かどうかに拘らず、差別を無くして社会を良くしていこうと考える人達の数を増やしていくことが大事だと思う。アライ頼みなのだ。

アライの姿や声も知りたい

「当事者」のみにフォーカスを当てて問題を語る表現が殆どな現状は、社会の大多数であるアライを置き去りにして、それと同時に「当事者」を独りで矢面に立たせる事態に繋がると思う。
アライはアライで「当事者じゃない自分が何か言ったりしても適切じゃないかも知れない」と発言を遠慮するし、当事者は当事者で、アライと繋がりづらくなり、孤独感を深めていく。

でも、反差別運動の主体は被差別者じゃない。この差別的な社会に生きて、それを正そうとする全員だ。

だから、無意味にそうやって分けるのはやめませんか。ってずっと思ってる。

というわけで、私は「当事者」の話だけじゃなくて、その周りにいる「アライ」の人達の話も一緒に聞きたいです。いつか聞かせて。話してみたら、私たちもっと安心してこの社会を生きられると思う。

それぞれの経験や立場は違っても、差別をなくそうとしている他者の存在を知れることで、私(たち)はバラバラに一緒に闘える。

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このエッセイを書いた人

they/them ノンバイナリー。はっぴーくぃあぎゃる。

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