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客体化について

目次

1.領域 

 私はフェミニズムを研究分野としている。フェミニズムは学問領域である以上に一生活者の“視座”なのだと思う。だから,社会や生活から形作られて社会や生活へと還元されていくその往還のなかで相互生成されていく。端的には,一人一人が生活や社会のなかで何かと接するときに感じる「嫌な気持ち」「理不尽な出来事」と密接に関わっている。

 連綿と続くフェミニズム史のなかで,今は第4波であるとされる。この波は「インターセクショナリティ」と「SNS」が特徴だろうと思う。インターセクショナリティというのは,複数の「セクション」(SOGIや階級,国籍や障害や年齢など)が交差した際に生ずる偏見や差別・蔑視や困難に注目するものの見方を指す(と私は理解している)。もう1つの特徴SNSというのは,#MeTooを始めとしてTwitterといったプラットフォームからの訴えかけが多くされたことを指す。

 だから,今の波で特に前景化しているフェミニズムの意義の1つとして,「色々な立場の人が身近な手段を用いて社会に対して女性軽視を訴えかけることで個人的な生活を変えていける」,というのがあるのではないかと思う。

2.テーマ

 さて,私はそんなフェミニズムのなかでも性的客体化に関して研究をしている。

 この概念は,90年代末と2010年代初頭が2つの分水嶺だといえると思う。1つは,学問上のパラダイムシフトである。Fredrickson & Robertが,1997年に性的客体化を改めて理論化するとともに,心理学的な悪影響を指摘した。それを契機に,性的客体化が実証科学の分野で「エビデンスベースド」な仕方で俎上に載せられるようになった。


 もう1つは,社会における客体化の在り方のシフトである。それは,端的にはスマートフォンの普及—すなわちそれに伴ってカメラとSNSをいつでもどこでも誰でも利用するようになったこと-である。身体のメディア化が加速度的に進むことで,誰しもが「見る主体/見られる客体」となり,まなざしが止揚あるいは反復されるようになった。本邦においてもこの2つのシフトによって,人文科学における性的客体化研究の賦活,SNSやさまざまなメディアにおける性的客体化という現象に対する認識とそれに付随する議論の賦活が生じている。以上のように,性的客体化が世界そして本邦において,アカデミアを越えて問題視されるようになってきている。そして,そのことと軌を一にして,上述のように,フェミニズム研究においてインターセクショナリティという視座が尊ばれている。そのことも性的客体化という現象を捉える視座の発展に寄与しているといえよう。

 以上,性的客体化が実証科学化と一般化という2つのパラダイムシフトを迎えたことを概観し,インターセクショナリティという視座が影響している可能性を指摘した。これらの文脈(すなわち発展の歴史)を鑑み,今後の課題として,アカデミアと実社会に対する複眼的な視点,そして各「セクション」に対する複眼的な視線を有して,特定の状況・表象を認知ないし知覚することが,性的客体化を捉えるにあたって肝要であると考えられる。

補遺1.性的客体化の否定と性的主体化の肯定の止揚

 性的客体化という視座や概念の社会に対する貢献性として,一般社会において生じ続けている微妙(subtle)な女性蔑視―女性に対する支配的なまなざし―を批判し,低減し,脱構築できることが挙げられよう。しかし,性的客体化の批判は女性のエンパワメントとしての性的主体化を否定することになりかねない―そのような議論が近年横溢している。「男性による身体支配(性と生殖の管理)からの解放を目指したラディカル・フェミニズム」(深海,2021)に対するバックラッシュになってしまいかねないと,私自身つねづね思う。一方,自らを性的に強調することを楽しんでいると自ら述べる女性(enjoyment of sexualizationの高い女性)も実際には男性からの視線(male gaze)に適応しているにすぎないのだ,という指摘もある(高橋,2021やRiemer et al., 2020を参照されたい)。

 こうした論議を,心理学的なエビデンスで以て結論づけることもできるかもしれない。すなわち,「心理調査の結果として実際にメンタルヘルス上のよくないアウトカムと関連しているじゃないか」という風に。しかしながら,その結果も,むろん本質的なものではないだろう。
 以上のようなコンテクストを踏まえて性的客体化を扱う必要があるだろう(と私自身に思う)。

補遺2.パターナリズムの回避

 また,多くが男性から女性に対して向けられる現象である性的客体化を,メタ的な(すなわち特権的な)まなざしで「それは性的自己決定なのだ」というレトリックで徒らに肯定したり,「女性が性的に表象されている時点でおしなべて被害なのだ」というヒロイズムで徒らに否定したりすることは危険であろう。前者に関しては,性的自己決定というパラダイムで女性の性や生殖の権利に関して他者が評定することが,江原(2002)の指摘するように,容易に自己責任論とすり替わるという問題性があるだろう。そして,一方,後者に関しては,補遺1で言及したような論議があるにもかかわらず第三者が一概に女性を被害者視してしまう危険なまなざしにほかならないだろう(附言すれば,このパラグライフで言及した各問題は,AV新法の可否に関する討議において生じた隘路の本質であるとも考えられはしまいだろうか)。

 さて,いずれの場合も「当事者(の語り“ナラティブ”)」の不在が共通する問題性である。すなわち,パターナリズムに満ちた,客体化に関する議論における当事者の客体化だろう。したがって(補遺1のイイシューと同様に),「女性本人がどう思っててもどう言ってても主体化なのだ/被害なのだ」と,勝手に物語(ナラティブ)を生成することのないように留意して,性的客体化という視座を抱くことがマストであろうと思われる。

<参考文献>

江原由美子(2002). 自己決定権とジェンダー

深海菊絵(2021). ポリアモリーという性愛と文化-愛をいかに自由に実践するか- 現代思想9<恋愛>の現在 青土社 pp.50-59.

Riemer, A. R., Allen, J., Gullickson, M., & Gervais, S. J. (2020). “You Can Catch More Flies with Honey than Vinegar”: Objectifcation Valence Interacts with Women’s Enjoyment of Sexualization to Infuence Social Perceptions. Sex Roles, 83(11), 739–753.

高橋幸(2021). 女性の外見的魅力をめぐるフェミニズムのポリティクス 現代思想11ルッキズムを考える 青土社 pp.178-187.

 

 

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このエッセイを書いた人

理不尽さについて聴く、書く、考える、話すことができたらと思う|フェミニズム、セクマイ、ジェンダー、ハラスメントなどなど

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