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ノブレスオブリージュ

 学者という立場においてフェミニズムすることには,経験的な知識以上に学問的知見に依拠できる,という意義があるのであろう。また,文脈を踏まえたメッセージを提示し,「今や自分からみた言論」「今や自分による言論」に文脈を加えるという,学問的視座のアウトリーチという意義も考えられる。アカデミズムと経験とが混淆すること特有の効果はこのようにあるのではないかと思われる。しかしながら,アカデミアにいないアカデミックな人でもそれはできるのではないかとは思う。もちろん,本来的にはアカデミアにいることでそのようなパラダイムを得られるのだろうとも思う。

 学者が社会的なテーマを扱う(学問でプロテストする)には,アカデミアの規範性に則って生きながら論文生産する者としてのアイデンティティを脱構築して自分や誰かやあなたの「わたし」に触れることが義務だろう。しかしながら,学者としてアカデミアという「政治」的な場の内集団成員として生きているしがらみ,アカデミアという場における「人間性を俎上に載せない」規範性,そういうものによって,社会にいる人の声に対して及び腰になる。

 アカデミアにおいては人間性の交換は些末でウブで青臭いものであり,一方,アカデミアでない場におけるプロテストでは理不尽さへの抵抗を示す個々人の声が尊ばれる。権力行使にセンシティブになる営為は,アカデミアの規範に逸脱することに伴うサンクションを避ける生き方を内面化したような人が発する空理空論ではできない。理不尽さへの抵抗を避けながら理不尽さを学問するような磁場(ストリートから離れた机の上)で原則ばかり述べる長広舌は,権力に関する味覚が衰えている舌だ。そのような人が現実の世界をいっちょかみして味わって行ういいご身分なグルメリポートは味を伝える機能性とシリアスさに乏しい。家父長的なアカデミアへの順応とリアリティは本来トレードオフではないはずだ。学者が権力に触れたときに,“生産的”に業績を積むためにそれに与するのではなく,その経験をアカデミアや街の権力の在り方を批評的にみるふるまいにフィードバックさせられはしないのか。“生”の“出来事”(ローデータ,などではなく)に対する感度や経験の多寡は,その人の説得力の量を意味する。図録が情報であり,館内にチケットを買って入って直接観るのが鑑賞であるように。

 アカデミアにおいて人間性の発露とそれに基づくコミュニケーション(人間性の交換)は,生産性がないものでありそれに拘泥するのは使えない者とされるだろう。アカデミアの上の人たちに対しての「御用学者」となる競争のコースからズレて人として素敵であろうとすることは,高コストであり,アカデミアに対してはローリターン,アカデミアの外に対してはハイリターンであろう。そうしたことに拘泥する者は変わった人としてアカデミアに残るのか,まともな人として順応するのか,出ていくのかしかない。これが家父長的な理不尽さの再生産でなくて何であろうか。 

 アカデミアに行く/いる人は,既存の価値観や理不尽さへの抵抗や不快感をどうしても我慢できない天然であり,それをアカデミックに伝えたい者だと思っていた。ましてやいわゆるリベラルな人文系の学問においては尚更。そうした者の視座と行動と言動の存在が,運動にはないアカデミズムの意義ではなかったのか。特権と小理屈と勉強の得意さで適者生存した人が自分と他人を非人間化し合うコミュニティには,そうした意義よりスノビズムの方がはるかに多く満ちていると思えてならない。あまつさえ,いわゆるリベラルな人文系の学問においてでさえ。

 アカデミアの政治性を脱構築し,「アカデミズムとコンテクストを発揮する」という存在意義を取り戻して知的生産を行い,運動に寄与されたい。

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このエッセイを書いた人

理不尽さについて聴く、書く、考える、話すことができたらと思う|フェミニズム、セクマイ、ジェンダー、ハラスメントなどなど

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