1.運動(身体)と運動(社会)
1-1.ダンスとアンビエント
しばしば語られるように、ダンスミュージックは言語や思想を超えてビートで人をつなぎ、踊らせることができる。人をアッパーにさせる(高揚させる)。そしてつなげる(巻き込む)。こうした性質を持つダンスミュージックは、平和に結びつけて語られることもままある。ラブパレードというレイブが、あらゆる意味で好例だろう。
一方、アンビエントは、言語や思想を超えてノンビートで/によって人をつなぎ、冷静にする。ダウナーに、ではなく、テンションを真ん中にする。
前者はハッピーで後者はシリアスだ。私は前者に危険性を覚える。言語や思想を超えて多くの人をアッパーにさせて踊らせながらつなげる。そうした「ダンサブル」な連帯/運動は本当に希望に満ちている形態なのだろうか。
1-2.ハッピーと人権
先日、TRPが行われた。毀誉褒貶だ。端的には、「私たちに人権を」より「ハッピープライド」を尊ぶスタンスに対する非難が沸き起こった/ている。他のさまざまな非難もここに帰着するのではないかと思う。
もちろん、一概にどちらが良い悪いの話ではない。そして一概にTRPというイベント/団体が良い悪いの話ではない。そんな白黒思考は非機能的認知(かつての言い方で言うところの「認知の歪み」)なのだろうと思う。肯定でも否定でもなく、複雑なものの複雑さをもやもやと抱えて語りたいと、少なくともこのことに関しては思う。非難・批判と存在否定はイコールではない。多くのファンダムにおいて、そのような認知による語りと語りに対する認知がされたいと思う。
さて、主催の方曰く、「パレードを歩き終わり、みんなで「ハッピープライド」と言ってハイタッチするような高揚感は、なかなかオンラインではつくれません。来年はリアルで開催したいです」(https://www.asahi.com/sdgs/article/14458574)とのこと。
これを読み、「ハイタッチするような高揚感」によって失われるものの存在が懸念された。端的には、ネットワークの拡大は時としてコミュニティの拡大とトレードオフの関係になるのではないか、ということだ。
2.祭(ネットワーク)と政(コミュニティ)
私は小さい頃からずっと、地区祭りが苦手だった。小学生の中学年はそれがピークで、「嫌い」という域に。
自分がなぜそんなに嫌がってるのか、当時考えた。①「何を願っているのか・祝っているのか分からないまま即席で集まって大騒ぎする」、②「そして即席で去り、何事もなかったかのように生活に戻る」。15年前のそんな結論を覚えてる。その年私は、山車が賑やかに練り歩く道路沿いの書道教室で、先生と2人きりで毛筆をしたためてた。「祭に出ないの?」と聞かれた。
私が、アッパーに人をつなげる「祭」然とした運動(あるいは運動像)につい抵抗感を抱いてしまうのは、この感覚に端を発していると思う。すなわち、ハッピー路線はこの①②の問題性を内包してると思う。
「その場に通い・赴きはするけど帰属意識や目的・問題意識や歴史・文脈の共有はしてない」という事態を、どうしても危惧してしまう。今回指摘された諸問題は、この事態の発生に収斂すると思う。コンテクスト(a.帰属意識、b.目的・問題意識、c.歴史・文脈)を共有しない人たちが流入し、そのまま流出する―そのような「通う人たち(線のようにつながる存在=ネットワーク)の拡大」は、「帰属する人たち(円を大きくする存在=コミュニティ)の拡大」に必ずしも寄与しないどころか、当該コミュニティを外部の者に剥奪されるリスクさえ包含するのではないだろうか。
インタビューによると、「当事者を取り巻く環境を変えるためにやっているのに、ややもすると当事者と非当事者の分断を生みかねない。でも、ハッピーな要素には人を巻き込む力があります」( https://www.vogue.co.jp/change/article/tokyo-rainbow-pride-fumino-natsumi )とのことだ。しかしながら、「非当事者による運動の剥奪」(コンテクストを踏まえず流入してそのまま去るという非当事者の往復運動が生じさせる運動の漂白)を、私はついつい危惧してしまう。
すなわち、ハッピー志向自体がどうこうではなく、その際には必ずコンテクストの共有と表裏一体となっていなければならないと思うのだ。最近、「分断」という言葉が取り沙汰されることが増えているように思う。しかし、分断を問題視するあまりになされてしまう拙速な接続の問題性もまた、留意されたい。
付記.アカデミズムと運動
私はコンテクストなきハッピー志向がもたらす「非当事者による運動の剥奪」を指摘した。しかしながら、コンテクスト偏重の問題性も最後に触れておきたい。
コンテクストの確保の規範化が行き過ぎると「a.帰属意識、b.目的・問題意識、c.歴史・文脈をある程度しっかり共有していないと参加するな!」というアプローチになりかねない。それは、主催者の言うように「身構えてしまう人」(https://www.vogue.co.jp/change/article/tokyo-rainbow-pride-fumino-natsumi) を生じさせてしまう。
そして、そのような態度は、運動を、気取ったインテリのものにしてまいかねない。それは、「非当事者による運動の剥奪」におけるコンテクスト軽視とは逆の方向からなされうる、「インテリによる運動の剥奪」だろう。これもまた剥奪に他ならない。
ただ、これはあくまで「運動はスノビズムや特権性を帯びるにつけ実践性が目減りする」という視座である。スノビズム批判や特権性批判がアカデミズム蔑視(反知性主義)と同一化しないよう留意されたい。
運動の両輪は当事者性と知性であり、いずれも欠けてはならないだろうというのが、本稿の旨だ。