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機械としてのカラダ、生きているカラダ

私は生理がかなり重い方で、大学受験前は生理になると勉強もままならなくなり、スケジュール管理の難しさに大変苦しめられた。1ヶ月のうち一週間は不調だなんて、恐ろしい割合だ。楽しみにしていた外出が生理と被りそうな時の絶望感や悔しさを今でも思い出すことがある。大学入学後もアルバイトや休めない用事と生理が被って、歯を食いしばりながら耐えたのだった。

大学二年生の時に低用量ピルを服用し始めてから、それまでの人生が一変した。生理痛がほとんどなくなり、生理日もコントロールできるようになって、もはや日々の中で生理を思い出すことはなくなった。毎日「健康」なカラダで快適に過ごすことができている。

生理の不調は、なんて「無駄」な時間だったんだろう。今は「無駄」のない毎日で幸せだ、と思ったこともある。

けれど、同じように生理に悩む友人にピルを勧めるうちに、ふと気づいたことがあった。

社会に適応するのは「機械としてのカラダ」、つまり毎日決まった時間にベストパフォーマンスを出せることが健康の条件で、「不健康」は故障品と同じ、社会から除外された存在と見なされているのではないか?

生理で苦しむ人にとって、その苦しみから解放される選択肢があることはとても重要だ。けれど、その結果「効率的に機械的に働くことができる」権利を与えられるのは、本当に私たちが望んだことなんだろうか。

「健康」から「不健康」になるきっかけは様々だ。病気や怪我など、どんな人にでもあり得る話なのに、社会はなぜか当然のように「健康」である前提で回っている。

人は機械ではない。生き方の選択肢を、自分たちの手でもっと広げていかなくてはならない。

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