威張りんぼうの「ぎゃあ」
セクシャル・ハラスメント、モラル・ハラスメント、アカデミック・ハラスメント、パワー・ハラスメント…。そうしたハラスメント被害に対して声を上げることは当然、言うまでもなく、自明的に、私怨ではない。
ハラスメントや差別に異議を唱えることは、「構造的威張り(威張ろうとすれば威張れるからって威張るというふるまい)」とそれに伴う「構造的逃げ(逃げようとすれば逃げることができるからって逃げるというふるまい)」に対する非難だ。
これらの威張りと逃げに相対する相手は、「構造的威張れなさ」と「構造的逃げられなさ」という境遇にある。要するに、「威張ろうとしたところで威張れないし威張れるとしても威張りたくなんかないという状況」、「逃げようとしたところで逃げられないし逃げられるとしても逃げたくなんかないるという状況」だ。そんな状況下にある者が「上」にする訴えかけは社会的な批判であり、「公怨」だ。
なのにハラッサーは、公怨を私怨だと認識して、私怨で「対抗」して意趣返しのつもりで逆ねじを食わせる。特権的で安全な立場にいる人が少し自分の威張りと逃げに応戦・論駁されただけで、「攻撃された!」「威張られた!」「怖い!」と言い放つ。すごく元気。元気いっぱい。わんぱく。「あなたのあの言動だって!」。
構造ってわかる?質的な違いがわかる?せめて量的な違いならわかる?
特権的で安全な立場にいる人が決まって見せてくるおぞましい素っ頓狂な泣き顔、困り顔、微笑み。すりかえられた話が、その表情筋で動かされるあの口から、ボトボトと落とされ続ける。せめてその暴力性もマスクされてくれてたらよかったのに。
威張られた側の「ねえ」
威張れるからこそわきまえてくれ。その威張りの責任から逃げられるからこそ逃げないでくれ。そして、威張れないからこそわきまえないんだよ。威張れないからこそ逃げていいんだよ。威張れるぶんわきまえる。威張れないぶんわきまえない。威張れないぶん逃げていい。
「ぎゃあ」と「ねえ」は非対称
コミュニケーション不全じゃなくて一方に過失がある出来事だってあるのに、どんな出来事に対しても、「相性だね」「どっちもどっちだよ」「それぞれがそれぞれの正しさや正義をもっててお互いに自分が正しいと思ってるのさ」みたいに相対化して矮小化・単純化する態度って、なんて知的じゃないんだろう。”そんな態度のほうがオトナな態度だとか社会的な態度だと物分かり顔で捉え(むしろ相当に幼稚で反・非社会的な態度なのに)、あまつさえその価値観をしたり顔で説き(お説教し)、ひいては過失した人がその相手にそれを行う”―そんな言動をする人がすごく多い。なんて反・非社会的なんだろう。
「ベタでめちゃくちゃテンプレ的である」という素朴さ。そんな素朴で自明的に問題のある価値観を悦に入りながらドヤ顔でスプレイニングする素朴さ。そして、相手のほうを素朴だと思ってものを説いてくる素朴さ。そのタチの悪い素朴さに気づかない素朴さ。
これからも重ねられるであろう、威張られたり逃げられたりする物語。今まで重ねてきてしまい、これからもつねにすでに重ねてしまいうる、威張ったり逃げたりしてしまう語り。そんなナラティブ(物語/語り)を少しでも減らせるよう生き続けながら、素朴さを加速度的に喪失していきたい。