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タフじゃないけど闘ってる、そんな自分を認めたい

自分が家よりも学校の方が居心地が良かった人間なので、そこで辛うじて命が繋がれていた実感があるが故に、教職に興味があった。
子ども達の居場所や生きる希望を作りたくて、教員になりたかった。

でもそこまでタフじゃなかった。現存する異性愛規範や男女二元論と闘いながら現場で奮闘続ける道を選べるほど、私はタフじゃない。

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社会って学校って大人って思ってたよりハード

通りすがりの小学生の子ども達に髪型を褒められた。「髪の毛素敵、格好いい~」と言いながら彼らは嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねていた。嬉しい。

いつもこうだったら良いなと思う。

私はノンバイナリーで、髪の毛を短くしているときに「ジェンダーユーフォリア(gender euphoria)」を感じるし、自分らしさを感じる。
私は髪の毛が短い。バズカット寄りのソフトモヒカンという髪型だ。
某公立中学校にボランティアとして参加したときには「髪の毛が短すぎて教育に悪い」と言われてクビになった事がある。
そこで「迷惑だから教員にならないでください」とか「秩序を乱さないでください」とか管理職の教員に言われて、それが結構引っかかっていて今年の教員採用試験は受けなかった。

今は戦略的撤退を選ぶけど

教育界は人権とか多様性とかに関して、社会一般の意識と比べて10年から15年ほど遅れていると知人の教員が零していた。

私もその意見には同意だし、行けるのなら一般企業に行った方が良いのだろう。私もわざわざ異性愛主義に染まった差別主義者と生身でキャリアを賭けて戦いたいとは思えないし、そこまでタフじゃない。
でも、ジェンダーアイデンティティで行ける業種が限られてしまうって、そこから排除されるって、悔しくないか。私は悔しい。
わざわざ死にに行きたくないから今は戦略的撤退を選ぶけれど、この悔しさは覚えていようと思う。

タフじゃないと闘えないってなに

てかタフじゃないと闘えないってなんなの。
タフじゃなくても差別には抗議したいしやれることはやりたいのに、直接この手でそれを届けられないってなんなの。
誰だっていつでも即座に差別主義者と素手で闘えるスーパーマンじゃないと現状って変えられないんですか?ちょっとずつじゃダメなんですか?なんでそうじゃないとまるで自分がダメみたいな気持ちにさせられてるんですか。もう一体何なんなんだろう。

私は教科書通りに誰もが認めるような、そんなタフな人間じゃ無い。そんな自分が嫌になることがある。
だけど、ずっと自分の出来る範囲でやれることはないか模索している。私は何もしてない訳じゃない。だから、分かりやすく認められる形でなくても、それも抵抗の形だと、自分を認めてあげたいと思い続けている。

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このエッセイを書いた人

they/them ノンバイナリー。はっぴーくぃあぎゃる。

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