どうやら自分はトランスジェンダーだったらしい、という事に最近気付いた。
ノンバイナリーだとはなんとなく思っていたが、自分にとって自分は一貫性がある存在だったので、「トランス」するという外から見た変化を表現した言葉を自分を表現するものだと思いづらかったのだろうと思う。
ノンバイナリーってトランスジェンダーで、私はトランスジェンダーらしいです。
自分のアイデンティティに「出会う」
そう気付くきっかけの映画に出会ったのは本当に偶然だった。
ただでさえトランスジェンダーの物語は少ない。
ご飯を食べるときにNetflixにログインして映画やドラマ、ドキュメンタリーを視聴する習慣がある私が、自分とトランスジェンダーとの繋がりを認識していない状態で、その日のご飯のお供として『リリーのすべて』を選んだのは偶然だった。
『リリーのすべて』は2015年にアメリカとイギリスとドイツで制作された伝記映画だ。元はシス男性として生活していた主人公が、たまたま女性の服を身に纏う機会があり、そこから自分がトランスジェンダー女性である事に気がついて女性として生きようと奮闘する物語だ。
映画では主人公が自分のアイデンティティに気付いて行動するまでが史実よりも大分早く、また主人公達が若く美しいままで描かれ続かれる事に対して批判があるが、私は主人公が自分のアイデンティティに気付くまではシス男性としての生活が成り立っている(逆に気付いた途端にダメになる)事に共感を覚えた。
そうだよね、不可逆なんだよね、と激しく共感した。
不可逆な、変わり続ける私の表象
本当の自分に出会って、自分が本当に心地よく感じる状態を知ってしまったら、もうジェンダー規範に従って自分を誤魔化し続ける日々は継続できない。
ジェンダー規範ガチガチの人間の常識を覆し混乱させる(そして時には攻撃を受ける)事を知っていても、自分を偽っていると自覚した上で偽り続ける事は難しい。
私自身、十代後半ぐらいまでは「女性らしい女性」を無意識に演じてジェンダー規範に溶け込もうとしており、当時の私の姿を知る人間からは「昔は女の子らしかったのに(髪の毛がこんなに短くなって/化粧もしないで/脱毛もしないし)一体どうしたの?」と言われる事がある。
ずっと髪の毛を短くする事に憧れがあった。女性として社会に生きている人間が男性と同じくらい短い髪の毛にするのは、あまりにもロールモデルが少なくて憧れであると気付くのにすら時間がかかったけれど、確かに憧れていた。
たどり着いた場所
そしていざ実際に髪の毛を短くして、バリカンでしょりしょりになった自分の頭を触ったとき、「やっと自分に出会えた」という気持ちが胸に広がった。
「ジェンダーユーフォリア(gender euphoria)」。(性的肯定感。自分の思うアイデンティティと外見に表れるジェンダー表象とが一貫性を持ったときに湧き上がる喜び、自己肯定感)。
その思いと、『リリーのすべて』で主人公リリーが感じた思いとは同じなのではないか。つまり、私はトランスジェンダーなのではないか。胸に湧いた疑問はすぐに確信に変わった。
今まで知らなかったけど、私ってトランスジェンダーらしい。
いきなり自分についた新しいラベルに戸惑うけれど、なんか納得したし、とてもしっくりきてしまった。
そしてフェミニズム界隈でもトランスジェンダー差別が吹き荒れている昨今。
はあ、強く生きよ。。。