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母との関係の再構築、そして「母の日」について

数年前の母の日の翌日、実母からLINEで1枚の写真が送られてきた。カーネーションの花束。背筋にじわりと嫌な汗が滲む。既読をつけないよう長押しでポップアップを表示させると、「昨日丸一日あんたからお花届くかなって待ってたのに来なかったから、もう自分で買った」と涙を流す顔の絵文字付きでメッセージが添えられていた。すぐにiPhoneを閉じたあのときのうんざりした気持ちを、きっとぼくは一生忘れない。

ぼくは、虐待サバイバーだ。

父は暴力を振るうひとで、母は傍観ないし加担するひとだった。正確にいえば母の暴力は父からのDVによって追い詰められていたゆえのものだったが、そうだとしても被害者のぼくからしたらそんなの「虐待していい理由」にも「父から身を挺して庇わなくてもいい理由」にもなりはしない。また、母はそうやってぼくを殴ったり蹴ったりなじったりする一方で、ぼくに精神的ケアを求めるひとでもあった。つまりぼくは、母からの被虐待者でありながら同時に母のヤングケアラーも引き受けていたのだ。

夫や義母、義姉──ぼくから見た父や祖母、伯母から受けたひどい扱いについて。遺産問題。甥っ子(ぼくの従兄弟)と自分に息子(ぼくの弟)の成績の比較。幼少期に実母から投げつけられた心無い言葉たち。おいおいと泣きながらそれらをぼくにぶちまける母の背を撫でるのが当たり前になったのは、まだランドセルを背負っていた時分からだった。

「おばあちゃんなんか嫌いや、パパの味方ばっかりしてママに意地悪しよる」「おばあちゃんのご飯より、ママのご飯のほうがずっと美味しいし好きや」「おばちゃん、子どもの成績を自慢してくるのいけずやな」「ママはちゃんとしてるから大丈夫や」……。母をどうにか泣き止ませなければと必死で紡いだ言葉たち。母の涙を拭くのは、そのときのぼくにとっては栄誉でもあった。母の関心は、基本的に常に弟に向けられていたから。だから母に頼られることが嬉しくて、誇らしくて、それがたとえ“子に話すべきではない内容”の相談であっても、嬉々として慰め役を買っていた。

それが自分の重荷になっていたなんて、当時は自覚すらしていなかった。

自分が母の話を聴いてあげなければ、慰めてあげなければ。母の欲しい言葉を差し出し、「あんたはいい子やなあ」「優しいなあ」と抱いてもらえるあの時間は、幼いぼくにとって母を独占できる至福だった。自分にとっては荷の重過ぎる役割を母から無意識的にであれ押し付けられていたと悟ったのは、今のパートナー(シス男性)と結婚が決まって家を出た少しあとのこと。

両親が自分に対して行なっていたのは“虐待”であったことに気づき始めるのと同時に、母に嫌悪感を抱くようになっていった。結局のところ母は、都合の良いときにぼくを捌け口にしていただけだったのだ。本来ならば母と対等な立場である父や、母の友人や、母のきょうだいが行うべき役目を、まだ10歳にも満たぬころから果たし続け、それでもなお暴力を振るわれていた事実を客観視できるようになってから、憎悪を覚えるようになった。

報われなかった努力、返ってこなかった愛情、無条件で母に愛されていた弟への嫉妬。自分の中にあるこれらを発見してから、次第に母と距離を置くようになった。それから数年間、母とは疎遠になった。母の日はもちろん、スルーし続けた。5月に入ると毎年、街中で見かける「母の日フェア」的な宣伝文句を掲げる看板を見かけては胸が軋んだ。

そして去年、とあることがきっかけで母にやむなく連絡を取った。久方ぶりに聞く母の声に、言葉に、神経がぶわりと逆立った。気づけば数時間、母に怒鳴り散らしていた。けれども母は謝罪の言葉を挟みつつも「でもあのときはそうするしかなかったんや」「だけどあんたやって悪いことしたやろ?」などと言い訳を繰り返すばかりで、ただぼくが消耗するだけに終わった。

それから数ヶ月に一度のペースで、同じことを繰り返した。フラッシュバックが起きるたび昼夜問わず母に電話をかけ、幼少期の理不尽な仕打ちを責め立てた。すると最初のうちは先述のように自己弁護に走っていた母が、時間をかけて変わっていった。その発言は二次加害だ、虐待したと認めて謝れ。こんな具合に母の発言に対して逐一指摘をしたからなのか、母自身が己を省みた結果なのか、その両方なのか。最終的には「ごめんなさい、私が全面的に悪かった。あなたを長いあいだ傷つけて、本当にごめんなさい」と衷心からの謝罪を受けた。

もちろんすぐに「もういいよ」と言ったわけではない。でも、その一言──1ミリの保身も弁解もない、心の底からの純粋な謝罪に、荒れた心が凪いでいった。それから対話を重ねて、ぼくの気持ちも少しずつ少しずつ変わっていった。次第に母との関係を再構築したい、と思うようになっていったのだ。

母を許そうとは思わない。許せるとは思えない。許したくない。でも、それと同時に、あらたに関係を築き直すことは両立できるのではないか。そんなふうに考え始めた。母と頻回ではないにせよ食事に行くまでになったころ、母の日が近づく時分、ふいに母が言った。「母の日は、もうこれからなんもせんでええよ」と。

驚いて母の顔をまじまじと見つめたが、しかしその顔には諦めも哀しみも浮かんでいなかった。昔の母お得意の、他者の同情を引く切ない微笑でもなかった。くちびるを真一文字に結んだ真剣な表情が、そこに在った。

きっと母も気づいたのだ、ぼくが距離を縮め始めたのは「許し」ではないということに。だからもう、彼女は自分を「母」として扱わなくていいと、ぼくに宣言した。それを理解した途端、両肩に乗っていた重石がすうっと消えていった。

その言葉に甘え、ぼくは母と交流を再開してからも、母の日を無視している。誕生日にはLINEを入れるが、プレゼントも贈らない。

母はぼくの生物学的母ではあるが、「お母さん」ではないのだ。彼女はぼくの「お母さん」には成れなかったし、成り損ねた。今後も、「お母さん」になる未来はない。学生時代のクラスメイトみたいな、ちょっと気が合わない友人のような、年に数回会うくらいの距離感の、今の関係性がきっとちょうどいい。

そういう虐待サバイバーがいたっていいんじゃないか。絶縁でもなく、「仲直り」でも「許し」でもなく、「親子」とは異なる関係性を築き直す作業を試みること。それが今の自分にとっての被害回復だと信じて、これからも母の日は知らんぷりをする。

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このエッセイを書いた人

伊藤 チタのアバター 伊藤 チタ ライター

ヤケド注意のライター。 ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。

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