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「普通」の狂っている人間 ―『僕の狂ったフェミ彼女』―

注意:この記事は小説『僕の狂ったフェミ彼女』のネタバレを含みます。

目次

『僕の狂ったフェミ彼女』

SNS上で話題になっている時に、『僕の狂ったフェミ彼女』を読んだ。
『僕の狂ったフェミ彼女』は、ミン・ジヒョン著のフェミニストの女性とナチュラルな性差別主義者の男性とが恋愛をする韓国の小説だ。主人公である、「普通」に性差別的な意識をインプットしたまま疑問も持たずに生きてきた男性が、久しぶりに再会した昔の恋人でフェミニストになっていた「彼女」の「目を覚まそう」と奮闘するという話の流れになっている。

性差別的な男性視点からフェミニズムを描いた作品は私にとって目新しく、「彼女」側の主人公への苛立ちやもやつきにも押されながら、内容が面白くて一気に読んでしまった。
読んだ後で感想として抱いたのは、「こんなに伝わらないものなのか……」という主人公への呆れだった。

もっともな事を言う彼女に恋をして「傍に居たい」と思いながら、彼女の紡いだ言葉全てを聞き流して都合良く曲解し、自分の思い通りの姿で彼女に服従して欲しがる主人公。

一人暮らしの女子だということが、今の彼女と僕の関係での圧倒的な長所だったのに、結局それすらもメガル的な何かに染まってしまったのだ。

『僕の狂ったフェミ彼女』p141

彼女のことが好きだと言いながら「メガル」(韓国でフェミニストのことを悪く言った言葉)という言葉で彼女の思想を小馬鹿にする、言行が一致しない主人公。

タイトルでは「狂っているのはフェミニストである彼女」という事になっているが、読み進めるにつれて「狂っている」ことが露見していくのはむしろ主人公の性差別主義者な男性の方だ。

愛しく思う相手ですら対等に見ることが出来ない主人公

作中で「彼女」と主人公が性行為をする場面で、積極的に快感を追求している「彼女」を目の当たりにして主人公が萎えてしまうというシーンがある。

もちろん僕も気持ち良かったが、心のどこかでは何か違うと感じていた。
(中略)
彼女がここまで気持ち良くなっている姿を見て、パートナーである僕は、当然満足すべきなんだろう。だがおかしなことに、僕の気分はそうじゃなかった。なぜだろう?
そのせいか、たった今まで切実に噴出したがっていた僕のムスコは、ついに萎えてしまった。

『僕の狂ったフェミ彼女』p126

話が進むにつれ、主人公ですら自分で疑問を抱き始める描写が出てくる。
大事に思っていて恋い焦がれてしまう存在ですらも、人間としてありのまま生きている様子を見ると落ち込んでしまうって、なかなか異常なんじゃないかと思う。
でもそれが結構社会ではスタンダード寄りな人の姿で、この主人公も「彼女」と再会するまでは気付かないままだったのだろうと思うとがっくりしてしまう。

どうして愛している筈の相手の気持ちを無視し、相手に自分の奴隷となって服従することを求めるのか。
どうしてもっともな事を言っている相手の言うことを無視して都合良く記憶から消したり出来てしまうのか。

生まれ育った環境が元々差別的だったから、と優しく解釈することも出来なくはないが、それでも女性が差別されて、主人公の属する男性という属性は優位と見なされる立場だったからうっすら差別構造に気付いていたとしてもそれをそのまま維持してきたのだろうし……。

というか本当にこの小説のように、見聞きした事実も歪めて都合良く解釈したりしているからこそ性差別主義者は性差別主義者たりうるのだなと感じる。切ない。

主人公は、終盤で事件が起こるまで彼女のことを矯正するべき存在として見ている。「自分がこんなに頑張っているのにどうして変わってくれないんだ?」とまるで自分が被害者であるかのように彼女を責め、「狂っている」存在として見ている。

「狂っている」と見なされる、差別を無くしたい人間たち

この小説のようにフェミニストが「狂っている」扱いを受けることは実社会のなかでも結構あって、身近な出来事だと思う。

私の経験を話すと、実は私も言葉そのままでは無いが、「狂っている」という意味の言葉を他人から言われたことがある。

当時指導を受けていた中年男性の大学教員から、文脈もなく「君って社会不適合者だよね」といきなり言われた。(親しかったら軽口として受け止められたかも知れないが、そこまでの関係性もない段階で)

その時私は相手に対して自分がセクシャルマイノリティでフェミニストなことを伝えていたし、相手も「フェミニズムの主張は正しいと思うけれど~」と理解がある風を装いながらトーンポリシングをするタイプの性差別主義者だった。そこから想像するに、相手は単純にフェミニズムに興味がある学生の存在が目障りで傷つけたかったのだろう。

いきなり他人に向かって「社会不適合者」とか、社会性がある人ならまあやらないだろうなと思ってしまう。だから逆にそっちが社会不適合なのでは?と突っ込みを入れたくもなった。

でも、逆に言えば、今まではずっとそんな調子の言動をしていても社会に適合できて、生きていけて、しかも男社会でそこそこの名声を築き大金を得ているのか……と考えることが出来た。そこにげんなりした。

軽率にアカハラという単語が浮かぶ言動をするような配慮の足りない人間に大金を稼がせる社会とは一体何なんだろう。

社会そのものが狂っているのならば、私や、「フェミ彼女」の彼女のように、社会に違和感を抱いて声を上げて変えようとしているフェミニズムに興味がある人間は、確かに「社会不適合者」と言われるに足る存在なのだろうと思う。
そして、小説での主人公が彼女に対して思っていたようなことを、きっと私に「狂っている」とレッテル貼りをした人間も思っていたのだろう。

変えていきたい、差別構造を変えたい人を狂っている存在として扱うような狂った社会も、狂った差別主義者も……。
私と同じく『僕の狂ったフェミ彼女』を読んだ人達にもそう思って欲しいし、まだ読んでいない人にはこれから読んで、伝わらない切なさ、でもそれでも主人公が変わる兆しを見せ始めていることへの僅かな希望を噛みしめて欲しい。

差別する人の意識を変えるのも、変わるのも、苦しくて長い旅になると思う。でも、何もしないよりは絶対にましだ。この小説を読んだ私たちには、これから話すことが沢山あると思う。

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このエッセイを書いた人

they/them ノンバイナリー。はっぴーくぃあぎゃる。

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