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ほしいろといき
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「理解ある彼くん」へのカウンターとして

女性ないし出生時女性に割り振られたノンバイナリーやXジェンダー、ミックスルーツ、虐待サバイバーなどが、苦境から抜け出したりあるいは折り合いをつけたりするエッセイ漫画が、たびたびSNS上で拡散される。その展開において、人生を大きく変えるきっかけとして“作者を想う男性”が登場すると、たちまち揶揄のリプがつく。「ハイハイ、『理解ある彼くん』のお話ね」と。

この落胆と言うべきか憤懣と言うべきか、そういうものが混ざったからかいを見かけるたび、ぼくの胃は縮む。なぜならぼくの現在のパートナーも男性で、彼のおかげで自らの存在を肯定できるようになり、機能不全家庭から──暴力を振るう父親から逃げ切ることができたから。

数年前、法律上は“男女”であることを逆手にとって彼と結婚し、父の戸籍を抜けた。一昨年、女性らしい名前からニュートラルな名前に改名をした。そして去年、より自分らしい身体を取り戻すために、性自認と容れ物の齟齬を擦り合わせるために、タイへ渡り胸オペをした。いずれも彼の精神的・経済的支援なしでは達成できなかったことだ。彼が背中を押し、寄り添ってくれたからこそ、成し得たものばかりである。それらがぼくを生かし続けた。

「理解ある彼くん」に牙を剥くひとたちに言わせれば、ぼくがこれまで自らの体験を綴ってきた文章すべても同じく「『理解ある彼くん』物語」なのだろう。

都合の良いタイミングで颯爽と現れた、一昔前で言うところの白馬に乗った王子さま。「女性じゃない」なんて主張しておきながら、結局オトコに頼ってるあたりめちゃくちゃ“女”って感じするよな。

だれかに向けられた偏見まみれの声は、ぼくの喉元にも突きつけられる。

そうじゃないのに。そんなんじゃないのに。

「理解ある彼くん」というスラングの発祥はよくわからないが、戸籍上女性の人びとにのみ向けられる皮肉であるようだ。自分と似た困難に遭っているひとだと思い、作者はいったいどうやって乗り越えたのだろうと読み進めたのに、蓋を開けたら自力でそこから脱したのではなく前時代的男性に助けてもらっただけじゃないか。こんなの、ちっとも参考にならない。そんな怒りが込められているように、ぼくは感じる。

けれどもぼくは思うのだ。だれの哀しみも苦しみも、癒されたり折り合いをつけたりして進んでいくその過程には、必ず──程度の差こそあれ──他者が関わっているのではないか、と。それがパートナーであることって、そんなに不自然だろうか。揶揄されるほどおかしなことだろうか。甘ったれた生き方なのだろうか。パートナーを必要とする人間にとっての“他者”が、いちばん身近な存在のひとりであるパートナーになるのは、むしろ自然な流れなんじゃないか。

救済において自分を肯定してくれるパートナーが必須であるように読めてしまうから、いま現在パートナーを持たない/必要としないひとたちにとってはまるで裏切りのように感じられるのかもしれない。悲しいかな現代の日本社会ではまだ「結婚してこそ一人前」という価値観が蔓延しているし、パートナーのいないひとへの風当たりは強い。特に“女性(とみなされるひと)”は「負け組」なんていう最低な言葉で侮辱されることも、未だ珍しくない。そういう抑圧を受けてきたひとの怒りがパートナーを持つ“女性/出生時の戸籍が女性であるひと”に向かうのも、理解はできる。

それでもやるせ無い気持ちは消えない。だってぼくたちパートナーを望むマイノリティは、べつにパートナーのいないひとを排除したくて体験談を綴っているわけじゃないから。すくなくとも、ぼくはそうだ。セクシュアリティとの折り合いが付けられたのも、改名や胸オペに踏み切れたのも、ルーツについて肯定的に捉えられるようになったのも、両親から受けた虐待の後遺症である精神疾患と向き合うことができているのも、すべて夫のおかげと言っても過言ではない。もちろん過去の恋人や友人たちの助けも借りたし、それらも等しくぼくにとっては必要かつ重大なものだった。でもパートナーである夫は、ぼくと一緒に生活している。同じ屋根の下に住み、寝食を共にする彼が、身近なひとの中でもっともぼくと接する時間が長い。だからぼくがこうして生きることを諦めずにいられているのは、大部分が彼の支えあってこそなのだ。

そのことを「理解ある彼くん」なんて軽薄な表現で、揶揄されたくない。夫を心から愛しているし、感謝しているし、誇りに想っているから。

心の救済や問題の解決に、パートナーが必須なわけではない。それでも多くのひとが、多かれ少なかれ“他者”の力を借りているはずだ。家族、友人、それから「理解ある彼くん」と揶揄される体験談をインターネットに放流した書き手。当然ながら自らを救ってくれた物語もまた、他者の生み出したものだ。真の意味において“ひとりきり”で困難に立ち向かうことのできるひとなど、きっといない。それがたまたまパートナーだったってだけの人間を、馬鹿にしないでくれ。

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このエッセイを書いた人

伊藤 チタのアバター 伊藤 チタ ライター

ヤケド注意のライター。 ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。

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