1.夏
母親との旅行の帰りに「お前らだけ楽しんでんじゃねえよ」って電話が父親から来てた(と母親から後から聞かされた)。ゆっくり朝ごはん食べてたら父親が机を殴って手を折った。たくさんのこういうエピソードで、人とかわいいお出かけやお食事するのがなんだか照れて仕方ない。照れくさすぎて喉が締まる。たくさんのこういうエピソードで、油断して楽しむのは危険だということ、それから、事実は次々にどんでん返しするということ。この2つを学べた小学校に登校する折、お腹が痛くなれば母親に足を引きずられたり壁の数cmのヘリを掴む指を一本ずつ剥がされたりしながら通って「7回も遅刻早退だって」と言われてしまった。どこかに行くってなんだろ、人といるってなんだろ。そう思った。
私は母を非難し始めた。抵抗すると暴れそうで怖い本丸をさけて、彼女を非難した。
お父さんが暴れてるからまぁくん止めて。それが私の仕事だった。4歳上の中学生の兄はそれは免除。部屋で漫画を読んでいる。毎回上手くいかなかったなあ。椅子なんかで阻んでも当然どかす。相手は大人だ。せっかくばあばが洗って綺麗にしまったスプーンやフォークがめちゃめちゃ。冷蔵庫の中の仕切りも割れちゃった。作った人、お店の人たちやその風景を思い浮かべて切なくなる。
「あんたの息子がいま暴れてて困ってるんだけど」って彼の母に電話した(私の家庭は母親の両親との2世帯住まい)。「なに?かっちゃんが暴れるわけないじゃん」。そう言われた。怒られた。親ってなんだろう。「どうすればいいのかな」って思った。母がいつも言うようにまぁくんが止めて、少年院に入ろうとふと思った。殺そうと思った。なのに、せっかく刃物を向けたのに、ばあば(一緒に住んでる、母方の祖母)が取り乱した。やめた。
お母さんごめんなさいって思った。泣き叫んで地面をのたうち回って、さっぱりして、お母さんとテレビを見てちょっと過ごした。絨毯のうえで奇声を上げながら、ちびまる子ちゃん一家が何度か思い浮かんだ。その日は遅くまで起きて、おおみそかみたいだねって思って、お母さんにそう言った。いつもは嫌そうな顔をして見てくる私の大きな絵を、そのときは褒めてくれた。嬉しかった。
優しさってなんだろう、威張りやからほど遠く生きるってどうやればいいんだろう、ズルさや決めつけってやだな。そういうことを思い始めた。一年くらいときどき家で叫ぶ癖が出て、母にからかわれた。あと、汚言症とチックが続いた。「最低最悪ぶっ殺してやる」というフレーズを誰かに向かないように、でも頻繁に、どこかに向かってよく言ってた。「死にたい」とどうしても言いたくて母のいる部屋で言ったら怒鳴られた。死ぬのが病的に怖くなった(というか、死という存在/現象自体が不気味で仕方ない)。それから、ちょうど自我体験の時期だったのもあって、「人ってなんのために生きるんだろう」って考えた。なるべく人として向上して、死ぬときに「より上の自分」であるために生きていくんだ、という言葉にまとまった(今もこれのまま)。今の私の人生は「それ以降」だ。「絶対に許さない」と「どうか許してください」で生きてる。9歳のころから15年くらいずっと心がもやもやする。それは加速度的に深まってる気がする。強くなっている、というよりは。
「向上」は、そんな思いに至る数日前にじいじが教えてくれた言葉だった。遠洋漁業を世界中でしていた元船長の彼の軽トラで漁港か釣りに行った帰りに、自販機のブドウジュース「おなか向上委員会」を指さして意味を訊いたのだ。祖母を怒鳴りつけて借金を数千万円作り始める数年前のじいじに教わった知識だった(私達はその策動を9年間知らなかった)。そのハプニングに関して母親から「まさとなんとかして」と何度も乞われ続けた私は、大学院休学中に療養のためにふるさとに帰省した折に彼を祖母に土下座させてしまった。額を畳に着けるよう何度も絶叫しても、「まあくんおじいさは腰が悪いからつかないだよ」とのことだった。私の仕事ってなんなんだろうと思った。
そういえば、借金のことを糺されて逆上した祖父は父に包丁を向けた(と母親から後から聞かされた)。だから私の知る限り、あの人は生涯で通算2回刃を向けられた。9歳の息子と79歳の義父。
2.秋
高校生くらいのころ、はたと気づいた。母親は責める対象じゃなかった。ひどく反省した。暴れるがために責められないからって、そこにいくのは違った。相手が女だから威張ってたんだ私は。気づいた。
そして、事情があるんだと彼女に対して思った。父親がああだからこうなんだ。
もちろん、「ごめんね母さんは悪くなかった大好き!」とかいう素朴な話ではなく。でもとにかく、そういうふうに急に思った。人の存在自体を否定しないこと、「死ね」とかそれに類するような発想や行動をもたないこと、それから、社会や構造という視座でものをみることだと思った。あと、反暴力を暴力でしないことだと思った。
すると、優しさってなんだろう、威張りやからほど遠く生きるってどうやればいいんだろう、ズルさや決めつけってやだな。そういうことを私に対して思い始めた。
関心がフェミニズムもとい男性批判に行った。
3.春
3か所目のこの街でもいろいろなことがあった。悲しい場面は悲しいから本当に嫌だと、頻繁に思うようになった。なるべく誰も悲しないためにこそ、批判や抵抗はあるのだと思った。だから、批判や抵抗のプロセスにおいても、なるべく誰も悲しまないことだと思った。最も効果的に”本丸”と闘わないとと思った。かわいい気持ちが蔑ろにされる悲しい場面は根絶されないといけない。論文を書いて、フェミニズムをしに別の街に出ることだと思った。