自己表白を通じてマイノリティの声を代弁できる点に文学の可能性があると考える。
文学において,「その言語を用いている」ということそれ自体にメッセージが再帰的・パフォーマティヴに含まれていると思う。それは1つには,筆者がマルチリンガルである場合に選択肢の1つとしてその言語を用いている場合に生じる意味性である。一方,モノリンガルであっても,その言語を用いている(必然的に選択している)時点で免れ得ない言外のメッセージの発出があるように思う。
小森陽一の言が示すように,日本文学とは,日本という場所で日本人が日本語を使って書いた日本文化を体現するものとして了解されている,言語ナショナリズムに基づく「制度」だ。テクストはコンテクストと不可分であり,テクストの意味はコンテクストに方向づけられる。「そんな意図はなく普通に」その言語で文学が著わされているとき,そこにはその「場所」における文化・社会の価値観が非意識的に内在している。それを踏まえて批評的な執筆/読解をしたとて,それは「自虐文学観」「自虐読解」などではなく,むしろよりニュートラルな読解であろう。
以上のようなパラダイムをもってすれば,その場所でその時代にその言葉で文学を記す際には,例えばある警句に何気なくマチズモが包含されていたりある物語に何気なくジェンダーが表象されていたりするのである。ナラティブ(語り/物語)には文化的・社会的な方向づけが“自然と”なされている。そのことを踏まえて行われる営為として,フェミニズム文学があると思う。自らの言語を脱構築しながら語り,社会と物語とを止揚する。アカデミズムとプライベートと政治を往還してそのような自己表白をできる点に,文学の可能性があると私は考える。