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私を踏む人達、みんな「優しくていい人」だから切ない

コロナ禍が本当に始まりかけくらいの頃にフィンランドに短期留学した。一緒に行っていたメンバーの一人が「フィンランドの人たちみんな優しいから差別とかされないね。よかった~」と漏らした。「優しさと差別するかは別じゃない?」と返した気がする。彼女は納得いっていない様子だった。

目次

「優しい=差別しない」?

「優しい=差別しない」という認識は漠然と社会一般に浸透しているような気がする。「差別は悪い人がする」ものだと考えているからこそ、「それ差別だよ」と人から指摘されたときにはひどく動揺したり、逆ギレしたりする事もあるのだと思う。

私は、差別はだれでもやり得るものだと思う。誰でも知識不足リサーチ不足で元々社会に周縁化されている人をそのまま無視したり排除したりしてしまう事は起こり得る。だから、踏まないように、踏んでもすぐ気づけるように、知識をアップデートし続けて、もし踏んでしまったら誠実に謝ることしかできないと思っている。

でも、頭でそう思っていても、社会に染みついた価値観がそこで生きる私の中にも浸透しているのは事実で。

以前私がゴールデンカムイの沼に落とした知人が「ゴールデンカムイが一部ファンから『ホモ漫画』って言われてるのわかりみ深すぎてうける」とカジュアルに「ホモ」という言葉を使ってLINEしてきた。
私が「それ別の言い方の方がいいかも」と角が立たないようにやんわり指摘したら話を逸らして終わらせていて、それ以降私はその知人を避けているのだが、その次に会ったときにも屈託のない笑顔で沢山話しかけて来たので逆に申し訳なく感じてしまった。

普通に社会生活をしながら差別する人達と生きている

「いい人」でも差別するけど、「いい人なのに」って思ってしまう。

差別をする相手である以上、指摘しても響かない相手なら尚更、一緒に時間を過ごせば過ごすほど傷付くことも増えるから、仲良くすることに対して気が引ける。でも、私たち、仲良くなる未来もあったのかな。とか未練がましいけど。

普通に社会生活を送りながら差別をする人は多い。
ここ数年、コロナ禍で人との交流が減ったことも有り、自分と同じか似たような高さでアンテナを張っていて、言っちゃいけないことはある程度分かっているので安心して話せるような人とばかり接してきた。
ホモとかオカマとかオネエとか、そういう言葉を軽率に使わない人とのコミュニケーションは安全で、快適だった。

でも、それだけが社会じゃない。

私たち、友達になれたらよかったのにね

私は、本当は思想とか関係なく(フェミニズムという人権についての事が社会の一部の人の思想である事、本当にどうかしてると思うんだけど)もっと色々な人と出会ったり遊んだりしたい。フェミニストでクィアである前に色々な趣味とか考え方とかだってあるし、もっと仲良くなれた人がいたと思う。なのに、そのために一歩、SNSという自分にとって安全な人たちだけをフォローして作ったクローズな空間から出ると、フェミニストじゃない人と話すと、削れるの……。

みんな勉強中だってこと、分かってる。そうだね。パレットークとかごりごりフェミニストでクィアな私のアカウントとかフォローして、いいね押して、それだけでちょっと勉強した気になってるんだよね。みんな「いい人」でいたいから、そういうポーズだけは取るんだよね。皮肉です。

私たち、同じ社会に生きてるから、やっぱり同じ空気吸って生きてくしかなくて。でも直接話すと傷付くから、お互い遠くから生存確認して、いつか疎遠になっていくんだろうな。

私たち、友達になれたらよかったのにね。なれないから切ない気持ちを抱きしめている。

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このエッセイを書いた人

they/them ノンバイナリー。はっぴーくぃあぎゃる。

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