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ほしいろといき
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トキシック・マスキュリニティってなんだろう?ドラマから考える

フェミニズムを学び始めると、色々な言葉に出会う機会も増える。Toxic Masculinity (トキシック・マスキュリニティ)は日本語で「有害な男らしさ」と訳され、フェミニズムやジェンダーのトピックに関心のある人なら一度は見たことのある言葉だろう。今回は3つの作品をもとに、このテーマについて考えたい。

Breaking Bad ブレイキング・バッド (NETFLIX)

高校の化学教師がガンで余命宣告をされ、家族にお金を残す為に元教え子と手を組み薬物クリスタル・メスの製造に手を出していくクライム・サスペンス。「家族のために」という大義名分で犯罪に手を染めるが、次第にそこに自分の存在意義を見出してしまい、取り返しがつかなくなっていく。トキシック・マスキュリニティをテーマに作られた訳ではないが、その加害性をよく表した作品だ。

「男」として家庭は妻に任せ自分は外で働き、弱音を吐かず、言葉少なにいざとなれば暴力や力に頼る。勝ち負けにこだわり、所有・支配する権力が自分に無いということはすなわち負け。負けたくないなら他の人間を蹴落とすしかない。という、典型的な有害な男らしさを内面化している主人公・ウォルターと、彼と対峙するキャラクターたち。有害な男らしさ VS 有害な男らしさの争いがあまりに表面的に見えてしまい、「まじ一旦休んで一緒にフェミニズム勉強してみない?それで何人の命救えた?」とシーズン5までの間に何度ツッコんだだろう。

そのような人物は今までも散々描かれてきたが、このドラマで特筆すべきは、主人公の相棒で元教え子・ジェシーの存在である。彼は主要キャラクターの中でほぼ唯一、有害な男らしさを内面化することに抵抗を感じ、シリーズを通して葛藤する人物。自分をそこから解放していいことを知らない彼が、ただ自分を押し殺して適合していこうとする姿は見ていて胸が痛む。彼は頻繁に「ビッチ(女性を罵る言葉)」と口にするが、その言い方がなんとも不慣れな感じで、まるで彼はこの言葉を使う事で、自分がこの社会の一員であると、自分にも周りにも言い聞かせようとしているのかのように見えてしまう。 (だからと言ってムカつくものはムカつくが。)

Succession メディア王 〜華麗なる一族〜 (U-NEXT)

アメリカで一大企業のトップとして富と名声を手に入れた男・ローガンと、彼の後継者になることを目論む家族達の攻防が皮肉とユーモアも交えて描かれるダーク・コメディ。トキシック・マスキュリ二ティは現在の不平等な社会構造を維持するためには欠かせない要素だが、その社会の中で成功を手にした彼らが、必然的に内面化している有害さを、このドラマは巧妙に描き出す。

トキシック・マスキュリ二ティというのは、この社会で生きる中で女性も非常に内面化しやすいものだ。このドラマの主要人物の1人でローガンの娘・シヴも、周りと張りわないと自分を証明できないというプレッシャーから、内面化を受け入れている。彼女の葛藤は理解できる部分があるし、他の登場人物も、話が進むにつれ応援したくなる人間性を持ち合わせている。ただこのドラマはそこで終わらない。視聴者が彼らに同情と共感を十分に寄せたタイミングで、彼らが権力を濫用し享受している存在だということを示し、彼らと大衆の間に広がる格差を炙り出すのだ。

加害性を内面化している人が、誰から見ても悪人かというとそうではない。この社会の中で内面化はむしろ免れにくく、誰しもが持ちうるものとして、私たち一人一人が自覚することが重要だと思う。今の社会の中では、「あの人こういう事するけど、良いとこもあるから。」と言われてしまえばそれ以上追求されないことが多々ある。このドラマの描写は、そのような思考の危うさを、視聴者に警告してくれているようにも思う。

Our Flag Means Death 海賊になった貴族 (U-NEXT)

ここまではトキシック・マスキュリニティに翻弄される作品を紹介したが、最後はそこから自分を解放していく人たちを描いたエンパワメントな作品を紹介したい。

18世紀初頭。貴族出身のスティードは父親や周りから「男らしさ」が欠けていることでいじめられ、自分自身もコンプレックスに感じてきた。そこである日貴族の世界から逃げ出し、いじめてきた人たちを見返したい気持ちとともに、海賊になってしまう。彼を中心に巻き起こる海の上の日々を描いたコメディである。

スティードは冒頭から船を所有し、船長として船員を従えている。船員たちは先ほど紹介したブレイキング・バッドのジェシーらのように、有害な男らしさから成り立つ社会しか知らないので、そこからズレている船長に不信感を持っている。華やかな服を着て、レクリエーションの場や図書室を船内に作り、暴力ではなく話し合いでの解決を重んじるスティードは、たしかに場違いに見える。だがスティードは、彼なりの方法で船員をまとめていく。

トキシック・マスキュリニティは、他者と話し合うことや、弱音を吐くことが「負け」や「弱さ」であるという考えを植え付けてしまう厄介さがある 。それにより個々が孤立し、適合する他に手段を見いだせなくなる。その点において、この作品は前の二作品と展開の仕方が違う。スティードの話し合いを重んじる姿勢に押され、船員も、彼と関わる人たちも、自分の思いを言語化し、自分を理解していく。それが次第にそれぞれへの理解に繋がり、それはスティード自身の解放にも繋がっていく。

またこの作品はクィア性にも溢れていて、船員にノンバイナリーの人物がいたり、クィアのカップルが出来たり、それぞれが既存のバイナリーで異性愛主義的な社会に縛られず、自分の気持ちと向き合っていこうとする。その点でも大変エンパワメントになる作品となっている。

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このエッセイを書いた人

映像クリエイター/映画『I Am Here -私たちはともに生きている-』撮影・編集

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