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ほしいろといき
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ジェンダーバイアスとわたしの闘争について

“嫁入り前のお嬢ちゃん”がボクシングなんて、という言葉が2021年の今、まだプロのスポーツ選手に向けられることがあるとニュースで知った。

そして同じではないけど同じ主旨のことばを、私もすこしだけ武道に関わっていた学生時代にさんざ向けられたことを思い出した。”怖い女”いじりや、そんなことをしても男には叶わないという勝手な決めつけ(そもそも男性を倒したいという理由でやっていたわけではない)、その他無礼なことばエトセトラを投げつけられた苦い記憶。

 冒頭のニュースを見て、その頃のもやもやがふと蘇って、自分の身にもあったことを見過ごしたくはないと思った。私はフェミニズムに出会ってから、専らこの手のマイクロアグレッションに対しては何かしらのアクションを起こすことにしている。
 元々やってみたいという思いがあったこともあり、今回はシンプルに、ボクシングを習い始めた。

それはあの頃に直に感じた悔しさや、今目にして蘇るもやもやを昇華するためでもあるし、ならばこの世の中に「ボクシングをする女」を一人増やしてやろうという、ひとつの草の根の意地のようなものでもある。

 ジェンダーバイアスや女性蔑視によって何か一つ、私たちの自尊心が削られることが起きたなら、必ず一つそれを回復しようと試みる。それは大きな変化でも小さな変化でもいい。これは私にとってとても大切な習慣。

そしてもちろん、こうして筆をとり発信することもそんな反抗のひとつ。私の戦闘手段。
私のこれらの行動にどんな意味があって、どれほどの意義があるのか。
今日は少しそんな話をさせてほしい。

 昨今の社会状況的には、さすがに主要メディアでも「男らしさとか女らしさという偏見を称賛するのは良くないらしい」くらいのぼんやりした価値観はでき始めているように思う。それはひとえにこれまで声を上げ続けてきたひとたち、メディアや社会から発信される性差別にNOと言い続けてきたひとたちのおかげだけれど。

 しかし一方で、普及し始めたばかりに「性に基づいた偏見が良くないことはわかりきっている」と建前のように扱われるというか、その考えの奥にある歴史や事情を顧みないお説教じみた主張の一つとして軽視され始めているという実感もある。要は、形骸化しているのではないかということ。

そんな「ハイハイわかりましたよ、ジェンダー平等、ジェンダー平等!」という態度にこそ近年のバックラッシュの傾向が詰まっているようにも思う。

現実はそんな風に軽く構えていられるほど平等になったわけでもないし、倫理的に成熟しているわけでもないのに、まるでジェンダー平等はある程度達成されているかのような、緊急性は無いかのような扱いを受けている歪さ。

実際の社会状況について、わかりやすい例でいえばメディアが演出するジェンダー表現もそうだ。まだまだこの社会に常に存在する様々な媒体にはジェンダーバイアスに則った表現も多く、人々の意識もそれに準じている。正直挙げ始めればキリがないが、最近目にしたものでは、今だに古めかしいジェンダーバイアス、ステレオタイプに則った「パパ力検定」とやらを取り扱う番組も堂々と放送していた。テレビ番組に関わらず、漫画やアニメ、電車の広告にすらジェンダーバイアスを感じない日はない。

しかしSNS上では、ジェンダーバイアスや差別表現等に異議を唱える“ポリコレ”により表現の自由が阻害されているという主張が、昼夜問わず白熱している。この歪さが違和感の正体だ。

またここ数年「偏見すらも認めなければ逆に多様性に欠けている」というような逆張りもよく見かける。所謂”政治的な中立”に立ちたがる人たちにとっては一見正しい意見に見えるかもしれないが、偏見は弱い立場にある人を周縁化するもので、それ自体が多様性を阻害していることに気付いてほしい。

 まだまだそんな状況だから、日常の中で蔓延るジェンダーバイアスに、私は日常の中でしっかり反論し続けることを決めた。
男らしさ女らしさの呪いを無くそう、男女二元論も壊そう、自分を解放しよう、この基本に立ち返り、体現し続ける。説教臭いと冷笑されようが、そういう一人ひとりの気づきと行動が必要となる。
 そしてそれは別に社会のためとか大きな変化のためだけじゃない、わたし/あなた自身の自尊心のため。
 
私が「女らしさ」ではなく「自分らしさ」を見つめるようになって変わったこと、変えたことを思い浮かべてみる。

自分をおばさんと呼ばなくなったこと。社会が望む理想的な女性の体形ではない自分を受け入れたこと。好きなメイクをして、好きな服を着るようになったこと。逆に、メイクをしなくても外出できるようになったこと。性被害を性被害と認識できるようになって、警察にいけるようになったこと。セクハラを笑って流すのをやめたこと。デモに参加すること。女性への偏見に反論するようになったこと。自分と誰かのために発信していること。

今回「ボクシングをする女」になってやろうと思ったのも、これらの大切な変化の一つ。

 何のことはなく、こんな風に私が自分らしく生きることを目指して、それで私が女じゃなくなることはなかった。私は私であり、女であるということは私の一つのアイデンティティであるということが骨身に染みて感じられるというだけ。

私たちのひとつひとつの選択や行動は確かにこの社会に少しずつ影響を与えていて、また、私自身にも影響を与え続けている。
男らしさや女らしさを乗り越えた先で、どれほど自分が好きな自分でいられるのか、楽しみで仕方がない。

 姫は目覚め、王子は剣を捨てる。そしたら私たちはみんなでペンをとろう。
ペンは剣よりも強い、現代社会では当たり前のことですから。

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このエッセイを書いた人

『ふぇみZINE』編集長          

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