タイムラグとしての「かわいい」
図書館で本を借りて、隣の広場で動画をぼんやり観る。ふと流れてきたYouTubeのショート動画。成人したアイドルがうさ耳つけて視聴者に手を振る。コメント欄「かわいい」。
ふと画面から視線を外す。公園の幼児。少し駆けて転んで、それを見た人「かわいい」。いまできること以上を「いっちょまえ」にしようとして力及ばなくって転んだ。
「幼児化に伴う時間的ちぐはぐさ」と「大人化に伴う時間的ちぐはぐさ」。“かわいい”は、「退行の成功」か「成長の失敗」に接したときの感覚なのかな。“かわいい”はちぐはぐさ。逆ベクトルの2種の。上手くちっちゃい子っぽくできたからかわいい。上手く大人っぽくできなかったからかわいい。
「かっこいい」の対概念としての「かわいい」
規範として、“かわいい”は多く女性に、“かっこいい”は多く男性に向けられる褒め言葉。要するに、“「女性」に向けられるイケてるという意味の褒め言葉”/“「男性」に向けられるイケてるという意味の褒め言葉”になって(しまって)いるかと思う。愛でられるとか格好がいいという原義から離れて。
そして、この“かわいい”は、退行の成功としての“かわいい”に聞こえる。女性への褒め言葉の記号としての“かわいい”が、女性の退行をほめそやしながら女性に対する報酬として機能してるとしたら。あまつさえ女性における規範性さえまといながら。
かわいさって、子供が大人になるときのちぐはぐさであって、大人が子供になるときのちぐはぐさじゃないはず。なのに、女性に対する/においての常識ないし規範として、幼児退行志向性=可愛さに(男によって)なってしまってる気がする。
退行の報酬としての「かわいい」
「女性」に非対称に“かわいい”という言葉が向けられ、“かわいく”あることが規範化され、そして、その“かわいさ”が幼児化の成功を指しているのかもしれない。そう思い至ったときに思い出した、下記のこと。
秋元康の“アインシュタインよりディアナ・アグロン”の歌詞とそれに対する批判。
誰かが言ってた「女性アイドルは未熟さや拙さこそが魅力」という言葉。
女性のSTEM分野進出の少なさ。
「女(・子供)にはわからない」というクリシェ。
「女の子はナデナデしてあげると喜ぶ」を始めとする、たくさんの意味で女性を舐め腐ってる「恋愛工学」。
さっき見た、成人したアイドルがうさ耳つけて視聴者に手を振ってコメント欄「かわいい」。
かわいさ規範に逸脱して「かわいくない」とされるとき、それは何を意味してるのか。「女のくせに」あるいは「男みたいに」成熟せんとする女性の姿への、蔑視ではないか。女性に対して非対称に向けられる、うまく退行し(てくれ)ないことに対するサンクションとしての「かわいくないね」。それから逃れるために強いられる、オトナカワイイ女性像というマナー。
ふと頭の中から意識を外す。公園の幼児が目に入る。誰に対しても、もう一方の“かわいい”(大人化の過程)こそが、かわいいと名指されればいいのに。